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「古今十七文字徘徊」帖

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古今のふれあった俳句作品についての所感を記録しておくノートのまとめです。作品にふれあうというのは、きわめて個人的なことで、古典として名高い名句とか、コンクールの優秀作品とか、そう…
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#30  クリスマス馬小屋ありて馬が住む 西東三鬼

#30 クリスマス馬小屋ありて馬が住む 西東三鬼

 自分は宗派は定かでないが、ざっくりと仏教徒であると思っている。
 我が家の墓は、真言宗、本山は長谷寺である。だから何があろうが弘法大師には黙って手を合わすことにしている。
 サラーマンのころ、時折築地の本願寺に足が向いた。広い本堂のちょっと隅っこのあたりに腰を下ろしてぼーとしていると、気持ちが落ち着いてくるような感じがした。遠くに阿弥陀様をみて、堂内の抹香臭い空気を吸っていると、肩の力が抜けてゆ

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#29  障子貼る母にさからひ出でゆきぬ 広沢紀念子

#29 障子貼る母にさからひ出でゆきぬ 広沢紀念子

 クリスマス寒波の南下して日本海側の各地と豪雪の山間部は12月としては、稀な大雪であるということだ。その地方にお住いの方々はさぞやと推察申し上げたい。これも温暖化の一面だといわれている。
 さて、自分が住む関東平野の中央部は、連日の晴天で降雨が全く途絶えている。12月に入ってからも一滴も降っていない。 

 さて、今日は障子の貼替えをした。「障子貼る」というのは、秋の季語である。「障子洗う」「障子

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#28 鍋敷に山家集有り冬ごもり 蕪村

#28 鍋敷に山家集有り冬ごもり 蕪村

 二十四節気では、「大雪」にあたる時期だが、それよりも細分化された七十二候では「七十二候:熊蟄穴(くまあなにこもる)」の仕舞の日となるのだそうだ。この頃は、冬眠から早く目覚めてしまう熊やら、そもそも冬眠をしないとかいうことも耳にして、それらが人畜への危害を与えているという報道を時折耳にする。そうであれば、日本中の熊の皆さんは、迷うことなく今夜あたりは冬越しのマイホームで過ごしてもらいたい。
 本来

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#27  妻によし妾にもよし紅葉狩 井月

#27 妻によし妾にもよし紅葉狩 井月

 季節柄、ついつい紅葉の話題になってしまう。
 今日は、中華街で飯を食べた。その会食の円卓の隣の席が、アマチュアながら腕の確かな「写真家」であったので、その人の終生のテーマは「富士山」であるいうので、楽しい一時となった。
 その方は奈良方面に住まいしているのだが、大和の神社仏閣など目もくれずに、各地に出かけては自然の風景写真を撮っている。こちらとしては、ガイドブックには紹介されない穴場のような古寺

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#26  手に秘めし薔薇捨てばやな秋の風  横光利一

#26  手に秘めし薔薇捨てばやな秋の風 横光利一

 横光利一の俳句について書かれたものをみると、横光の母方が松尾芭蕉の血を引くものであることに触れらている。つまり、横光利一は、そういう流れの人であったということだ。
 丸谷才一の「松尾芭蕉の末裔」という評論は、その横光の俳句にたいそう手厳しくて、興味のある方は一読してはいかがか。(国会図書館デジタルコレクションで読める)
 

手に秘めし薔薇捨てばやな秋の風  横光利一

 この句、たぶん褒める人

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#25  別るるや柿喰ひながら坂の上 惟然

#25 別るるや柿喰ひながら坂の上 惟然

別るるや柿喰ひながら坂の上  惟然

 誰との別れかというと「翁に別るるとて」とあるから、師の芭蕉との別れである。
 別れの時が来て、柿を齧りながら坂の上から去ってゆく人を見送った。それだけのできごとだが、とても好きな句だ。
 別れてゆくのは、敬慕してやまない師である。
 惟然の人となりを思い合わせると、この句を初見した時のおおらかなものだという第一印象とは、ちょっと違ってむしろペーソスの漂う感じ

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#24  なほ匂ひ立つ木犀の雨の花  誓子

#24 なほ匂ひ立つ木犀の雨の花  誓子

  我が家の金木犀も今が盛りである。
 
 今日は、空が灰色にたれこめて、小雨が降ったり止んだりしている。
 そんな日であるからガラス戸も窓も閉めたままなのだが、家の内中に木犀の匂いがしている。木犀が咲きだしたのは、しばらく前であるからこの間、カーテンやらソファーやら壁紙やらに、金木犀の香りがすっかり沁みつてしまったのであろうか。寝ても覚めてても、この匂いに取り巻かれているような気がしている。

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#23  われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華 杉田久女

#23 われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華 杉田久女

  曼殊沙華と呼ぶか、彼岸花というか、この使い分けが案外難しい気がする。
 例えば、この句などは曼殊沙華でないと面白くもなんともなくなるだろう。

われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華 杉田久女

 サタンに憑かれた女人の頬が、曼珠沙華の点す光に照り映えて、深紅に染まっている、そんなイメージが浮かんでくる。
 これが「彼岸花」では、なんだか幽霊っぽくなってしまう気がする。恐ろしさが、陰にこもってくる

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#22 あやまちを重ねてひとり林檎煮る  白石冬美

#22 あやまちを重ねてひとり林檎煮る  白石冬美

 
 林檎を調理して食べるというのは、自分の経験ではほとんどない。あるとすれば、アップルパイなんぞが思いつくだけだ。
 
 例えば、芥川の句。

枝炭の火もほのめけや焼林檎 芥川龍之介

  「枝炭」というのは茶道で用いるものであるというから、焼き鳥屋の備長炭なんぞとは、違うのだろうと想像するが、茶道なんてとんと縁が無いので分からない。
 それでも、晩秋というより木枯らしの吹く冬の晩が雰囲気が出そ

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#21  やすやすと出でていさよふ月の雲  芭蕉

#21  やすやすと出でていさよふ月の雲  芭蕉

 昨晩は、名月に憎まれ口をたたいたが、今夜の月は素晴らしい。

 そこでこの風雅な一文を。

堅田十六夜の弁  芭蕉

 望月の残興なほやまず、二三子いさめて、舟を堅田の浦に馳す。その日、申の時ばかりに、何某茂兵衛成秀といふ人の家のうしろに至る。「酔翁・狂客、月に浮れて来たれり」と、声々に呼ばふ。あるじ思ひかけず、驚き喜びて、簾をまき塵をはらふ。「園中に芋あり、大角豆あり。鯉・鮒の切り目たださぬこ

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#20 野畠や大鶏頭の自然花 一茶

#20 野畠や大鶏頭の自然花 一茶

 秋の七草もよろしいのだが、秋を極める花は、鶏頭であるかもしれない。その証とも言えそうな茂吉の一首。

鶏頭の古りたる紅の見ゆるまでわが庭のへに月ぞ照りける 茂吉

 
 名月と鶏頭、意外な組み合わせであるが、似合いそうだ。
 では、これはどうだろう。

名月や鶏頭花もにょっきにょき 良寛

 名月ではないが、同じく良寛で。

綿は白しこなたは赤し鶏頭花

 今盛んに、我が菜園でも綿が吹いている最

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#19   名をへくそかずらとぞいふ花盛り     虚子

#19 名をへくそかずらとぞいふ花盛り  虚子

 

 この花、屁糞葛と呼ばれている。畑の周囲に咲いている。

 まこと、命名というのは、慎重にしてほしいものだ。
 

名を へくそかずらとぞいふ 花盛り 虚子

 屁糞葛という呼ばれ様は、茎や葉を揉むと悪臭がすることからだ、その悪臭の素は、確かに屁の成分と同じだという。

 しかし、和名には、花の内側の赤色がお灸をすえた跡に似ることから「ヤイトバナ(灸花)」、また、筒状の小花を田植えをする早乙

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#18  冥冥といつしか卯月二十日月  鬼房        

#18 冥冥といつしか卯月二十日月 鬼房        

 さて、当地に見える今夜の月はとてもきれいだ。
 蒸し暑い夜なのだが、東の窓に月が昇ってきて、なにやら秋めく。
 蒸している割には、大気もすんでいるらしく、清かに月が見える。

 今は陰暦でいうと七月二十日の晩である。
 そこで、今夜の月は「二十日月」。
 「二十日月」は「更待月」と呼ばれている。
 「更待月」なら一番名高いのは陰暦は八月二〇日の月である。
 今年の暦で云うと九月二十二日の月である

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#17  手枕に花火のどうんどうん哉 一茶

#17 手枕に花火のどうんどうん哉 一茶

 墨田川の川開きの夜であろうか。

手枕に花火のどうんどうん哉 一茶

 「手枕」というのは、男女の共寝の際のことというのもあるが、一茶のこの句にからそういう感じがあるだろうか。
 「どうんどうん」とは、花火のあがる音である。

 (貧乏長屋に宵が来て)
 一人寝転び、ひじまくら。
 打ち上げ花火のどうんどうんという音を聞いている。
 (これも呑気きままで悪くない。)
 
 そんな風か。

 昨晩

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