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ため息俳句 啄木君

 思わぬ時、時折、石川啄木の歌を読みたくなる。
 自分の目から見ると、啄木の歌は古びることがない。
 この頃は、短歌も口語で読むことが当たり前なって、それが近頃の短歌ブームの一つの要因だと思う。
 啄木の口語は、謂わば明治の口語であるが、今時の若者が読んでもわかりにくいところはないだろうし、共感できるところが多いだろうと思う。

いと暗き
穴に心を吸われゆくごとく思ひて
つかれて眠る

浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心

草に臥て
おもふことなし
わが額に糞して鳥は空に遊べり

何となく汽車に乗りたく思ひしのみ
汽車を下りしに
ゆくところなし

気の変る人に仕へて
つくづくと
わが世がいやになりにけるかな

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

白き蓮沼に咲くごとく
かなしみが
酔ひのあいだにはつきりと浮く

 これらは、「一握の砂」の中の歌であるが、どちらかというと目立たないものばかりであるが、こうした歌でさえ、自分へある種「既視感」のような感じを抱かせてくる。
 いやデジャブなどでない、確かにその歌の「感情」を自分も体験した、その時の状況はこうであったと、説明せよといわれたらできそうな気さえする。
 人によっては、それは通俗的であることの証だよと云う人もいようが、自分としては、自分だけではない啄木もそう感じていたのだと知って、何度も淋しい心が暖められたのだ。
 啄木は、二十六歳で死んだ。自分は、後期高齢者とカテゴライズされている身である。そういう年の差であり、時代も異なるのだが、時々なんとも懐かしい友人のように感じるのだ。

長新太さん、この方もなつかしい。

 

啄木にハンバーガーに波郷の忌  空茶