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時には外部の刺激も必要
何もないところからポジティブな感情を作るのは難しい。
なので意図的に外部からのインプットは必要。
何をインプットするかを選択する。
何をインプットするか選択するという小さな行動の差が後々大きくなるかな?
とはいえ大げさに考えるのもよろしくない。
ちょっといい気持になるくらいのことにしておけば勝手に拡大されていく。
最初に勢いをつけるくらいのイメージ。
加速してくれたらラッキーくらいで。
ただ黙って静かに心の声に耳を傾けることが、感情を大事にするということなのかもしれない
noteを書く気が起きない。やめてもいいかな?
書いて投稿しないと気がすまないな。
相反する二つの感情が同居している。
そして葛藤を生んでいる。
良いことなのか悪いことなのかはわからない。
自分の内面は一枚岩というわけではない。
それぞれが最適を目指すためぶつかり合うことがよくおこる。
あくまで脳は狩猟採取明時代に最適化されているものだ。
とはいえ、この不協和音を解消できるかもしれない方法が見つ
やる気が出ないときの思考内容
自然体で書いてみる。
そもそも何に悩んでいるんだろうか?
漠然とした悩みの正体はなんなのだろうか?
無理に変えようとしすぎていた。
なので戻すための休みが必要。
また新しい戦略を試してみる。
ついでに書くことのハードルをまた上げていた。
もう箇条書きで編集もしなくていいかな。
そもそも狙って反響のある記事が書けないなら何も狙わなくていい。
やっぱりテーマを決めておかないとこういう箇条書きになる。
効力感はどうやって増やすんだろう?
何もしたくないな。
でもゲームのような遊びはできる。
その正体は少し垣間見えた。
効力感のようだ。
どうやって増やすんだろうか?
というよりも減らさないほうがいい。
でも新しい取り組みをするとどうしても減る。
そういう取り組みがあっていない可能性はある。
減らない取り組みをしたいとは思う。
それがわからないから減っている。
効力感の理解の深さが足りない?
結局こういう理屈を知ったところで生かすには
好きと嫌いの違いはコントロールできるかどうか?
書くことは好きなようだ。でもいやになっているときもある。たぶん成果とか何かしらを求めて書くのがいやなんだろう。自由に好き放題できるから楽しい。というより、本来楽しいものでもルールを課されるとつまらないしょうもないことに思えてしまうのかもしれない。
たとえば、人間は本来歩く生き物のはずで、運動は心地いいはず。でも嫌いな人がいる。無理矢理やらされたり、健康上しなければならない、というように自由意志が