本能寺の変1582 第113話 14信長の甲斐侵攻 4勝頼の首 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第113話 14信長の甲斐侵攻 4勝頼の首
越中で、一揆が蜂起した。
信長の甲斐侵攻に関連して起きた事件である。
これにより、織田方の、神保長住の富山城が占拠された。
さる程に、越中国富山の城に、神保越中守居城侯。
然るに、今度、信長公御父子、信州表に至りて御動座侯のところ、
勝頼が、そそのかしたと云う。
長住は、捕らえられ幽閉された。
武田四郎、
節所を拘(かか)へ一戦を遂げ、悉く討ち果し侯の聞、
此の競(きお)ひに、越中国も一揆蜂起せしめ、
其の国、存分に申しつけ(支配)侯へと、
有り々々と(さも本当らしく)、越中へ偽り申し遣はし侯。
事実に心得、小島六郎左衛門・加老戸式部両人、一揆大将に罷りなり、
神保越中を城内へ押し籠め、
三月十一日、富山の城居取りに仕り、近辺に煙を挙げ侯。
柴田勝家が富山城を包囲した。
勝家は、、北国軍の総司令官である。
即刻、対応。
信長へ、戦況を報せた。
時日を移さず、
柴田修理亮・佐々内蔵介・前田又左衛門・佐久間玄蕃頭、
此等の衆として、富山の一揆の城取り巻き候間、
落去、幾程もあるべからずの旨、注進申し上げられ候。
(『信長公記』)
信長は、岩村から国境を越えて信濃に入った。
同三月十三日。
「険難節所」
険しい山中路を越えた。
この日は、禰羽根(長野県下伊那郡根羽村)泊。
三月十三日、信長公、岩村より禰羽根まで御陣を移さる。
信長は、勝家に、武田の滅亡を知らせた。
同日。
信長は、朱印状を送った。
宛先は、北国軍の四将。
柴田勝家・佐々成政・前田利家・不破直光。
「駿・甲・信、滞りなく一篇に仰せつけられ侯」
彼らにとっては、大きな刺激。
さぞや、奮起したことだろう。
信長公御返書の趣、
武田四郎勝頼・武田太郎信勝・武田典厩・小山田・長坂釣竿を初め、
家老の者、悉く、討ち果たし、
駿・甲・信、滞りなく一篇に仰せつけられ侯間、
機遣(きづかい)あるべからず侯。
飛脚(信忠からの書状)、見及び候間、申し達す(伝える)べく侯。
其の表(越中)の事、是れ又、存分たるべき(存分に対処すべき)事、
勿論なり。
三月十三日 (朱印)
柴田修理亮殿、
佐々内蔵介殿、
前田又左衛門殿、
不破彦三殿、
(『信長公記』)
⇒ 次へつづく 第114話 14信長の甲斐侵攻 4勝頼の首
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?