本能寺の変1582 第39話 6光秀と信長 4御父信長 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第39話 6光秀と信長 4御父信長
◎信長は、京に凱旋した。
九月二十七日、出陣。
十月十四日、帰洛。
十七日ぶりの都であった。
◎義昭は、本國寺に御座を置いた。
大衆は、これを喜んだ。
十四日、芥川より公方様御帰洛、六条本国寺に御座をなさる。
天下一同に喜悦の眉を開き訖んぬ。
(『信長公記』)
十四日、庚寅(かのえとら)、天晴、
今日、芥川より武家御上洛と云々、
六条本國寺え御座を移さると云々、
(「言継卿記」)
◎信長は、清水寺に入った。
斯くして、掃討戦は終わった。
信長も御安堵の思ひをなされ、当手の勢衆を召し列れられ、
直ちに清水へ御出で。
◎信長は、大衆に配慮した。
人気の所以である。
諸勢、洛中へ入り侯ては、
下々、届かざる族もこれ在るべき哉の御思慮を加へられ、
◎信長は、正義感が強い。
これが、信長の真の姿。
実像である。
留意されたい。
警固を洛中洛外へ仰せ付けられ、猥(みだれがま)しき儀これなし。
信長は、短期間に天下を平定した。
表面上は、そう見えた。
すでに、畿内の逆徒など数ヶ所城郭を構へ、相支ふと雖も、
風に草木の靡(なび)くが如く、
十余日の内に悉く退散し、天下御存分に属し、
義昭は、細川管領家の屋敷に御座を移した。
二人の間、きわめて良好だった。
正に、「蜜月の時」である。
細川殿屋形(館)御座として、信長供奉なされ、
御殿に於いて、御太刀・御馬、御進上。
忝(かたじけな)くも、御前へ、信長召し出だされ、
三献の上、公儀御酌にて御盃、
幷(ならび)に、御剣を御拝領。
(『信長公記』)
朝廷が動いた。
義昭を征夷大将軍に任ず。
十月十八日、甲午(きのえうま)、天晴
今夜、将軍宣下これ有り、
公家たちが内裏に集合した。
義昭の晴れ舞台である。
廿二日、戊戌(つちのえ)、天晴、
今日、武家御参内これ有り、
廻し文は、斯くの如し。
参会の事、去る十九日伝奏万里小路より廻文此の如し、
刻限辰一点(8時頃)の由、其の沙汰に候也、
来廿二日、室町殿御参内有るべく、
各(おのおの)参会せしめ給う由候也、
十月十八日 惟房
柳原殿、烏丸殿、中山殿、広橋殿、山科殿、飛鳥井殿、
庭田殿、葉室殿、柳原殿、三条殿、甘露寺殿、山科殿、
正親町殿、飛鳥井殿、中山殿、日野殿、中御門殿、
広橋殿、坊城殿、白川殿、
(「言継卿記」)
◎義昭は、第十五代将軍に就任した。
義昭、参内。
名誉の瞬間である。
十月廿二日、御参内。
職掌(しきしょう)の御出立、儀式相調へ、征夷将軍に備へ奉り、
城都(京)御安座。
(『信長公記』)
◎細川藤孝は、これに立ち会った。
和田惟政もいる。
長い道のりだった。
これまでの苦労の数々。
ようやく、ここに結実した。
随伴した家臣は、以下の通り。
御供衆、細川右馬頭藤賢、上野佐渡守﹅﹅、一色式部少輔藤長、
細川兵部大輔藤孝、三淵弥四郎﹅﹅、上野中務大輔﹅﹅、
和田伊賀守﹅﹅、
御同朋春阿、
御走衆左、三上兵庫助、安威兵部少輔、沼田弥四郎、
右、本郷治部少輔、金山常陸介、眞下宮内少輔等なり、
(「言継卿記」二十二日条)
◎光秀は、京にいた。
信長も、いる。
藤孝も、いる。
光秀も、いた。
【参照】
◎第30話 第30話
◎光秀は、細川藤孝に仕えていた。
◎フロイスの証言。 『日本史』
◎多聞院英俊の証言。 「多聞院日記」
◎第32話 第32話
◎光秀は、藤孝の下で動いていた。
◎第35話 第35話
◎光秀は、藤孝の下で動いていた。
⇒ 次へつづく 第40話 6光秀と信長 4御父信長