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本能寺の変1582 【 重史 22 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【 重史 022】『信長公記』

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
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【 人物 】 
*加筆修正 

【 重史 022】 ◎第70話   ◎小70

①関東八州の御警固を申しつけ、
②老後の覚えに上野に在国仕り、  
③東国の儀、御取次、彼れ是れ申しつくべきの旨、
                       『信長公記』

 以下は、天正十年(1582)三月二十三日、信長が、諏訪法華寺にて、
 滝川一益に、上野一国と信濃二郡を与えた時の様子である。

  三月廿三日、滝川左近召し寄せられ、
  上野国、幷(なら)びに、信州の内二郡下され侯。  

 信長は、間もなく、六十代に突入する一益に、名誉を与え、
 最後の花道をかざってやろうとした。 

  年罷り寄り、遠国へ遣はされ侯事、
  痛みおぼしめされ侯と雖(いえど)も、

  関東八州の御警固を申しつけ、老後の覚えに上野に在国仕り、
  東国の儀、御取次、彼れ是れ申しつくべきの旨、上意、

  忝くも御秘蔵のゑびか毛の御馬下され、
  此の御馬に乗り侯て、入国仕り侯へと、御諚。
  都鄙の面目、此の節なり。
                          (『信長公記』)

【引用】◎第70話 ◎第75話



 ⇒ 次へつづく


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