本能寺の変1582 【重史45】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史045】 『信長公記』
はじめに ←目次 ←【重要史料】 【重史一覧】 ←
→重要 ◎目次
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 目次中 一、光秀の年齢
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史045】 そ第78話⑯
惟任、右の趣、一々、注進申し上げられ、 『信長公記』
信長は、猜疑心が強い。
光秀は、そのことを、よく知っていた。
それ故、報告には、特に、気を遣っていた。
信長は、多忙だった。
光秀は、報告の仕方が上手だった。
信長が、掌握しやすいように配慮しつつ、わかり易く、かつ、詳細に、
報告していた。
信長は、これに、大いに満足していた 。
これが、光秀の常だった、のである。
先の【 重史 044】と併せて、ご覧いただきたい。
以下は、天正七年1579八月九日、丹波黒井城を攻めた時の場面。
八月九日、赤井悪右衛門楯籠り侯黒井へ取り懸け、
推し詰め侯ところに、人数を出だし侯。
則ち、噇(どう)と付け入りに、外くるは(郭)まで込み入り、
随分の者、十余人討ち取るところ、種々、降参侯て、退出。
光秀は、信長に、戦況を、逐一・詳細に報告していた。
惟任、右の趣、一々、注進申し上げられ、
信長は、光秀に感状を与えた。
永々、丹波に在国侯て、粉骨の度々の高名、名誉も比類なきの旨、
忝くも御感状くだしなされ、
都鄙(とひ)の面目、これに過ぐべからず。
(『信長公記』)
【引用】そ第78話⑯
⇒ 次へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?