本能寺の変1582 第109話 13上総介信長 7弟、信勝の謀叛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第109話 13上総介信長 7弟、信勝の謀叛
稲生の合戦。
同日、昼頃。
戦は、稲生の村はずれで始まった。
八月廿四日、午剋、辰巳へ向つて、先づ、柴田権六かたへ向つて、
過半かゝり給ふ。
散々に、扣き合ひ、山田治郎左衛門討死。
勝家は、手傷を負って、退いた。
頸は、柴田権六取り侯て、手を負ひ侯て、のがれ候なり。
佐々孫介、其の外究竟の者どもうたれ、信長の御前へ逃げかゝり、
其の時、上総介殿御手前には、
織田勝左衛門・織田造酒丞・森三左衛門、御鑓持の御中間衆四十計り、
これあり。
造酒丞・三左衛門両人は、清洲衆、土田の大原をつき伏せ、
もみあひて、頸を奪ひ侯ところへ、相かゝりに懸り合ひ戦ふところに、
敵は、信長の気迫に圧倒された。
信長は、一喝した。
「終に、逃げ崩れ侯ひき」
元はと言えば、皆家臣。
爰にて、上総介殿、大音声を上げ、御怒りなされ候を、見申し、
さすがに、御内の者どもに侯間、御威光に恐れ、立ちとゞまり、
終に、逃げ崩れ侯ひき。
此の時、造酒丞下人禅門と云ふ者、かうべ平四郎を切り倒し、
造酒丞に頸を御取り侯へと申し侯へば、
いくらも切り倒し置き侯へと申され侯て、先を心がけ御通り侯ひつる。
信長は、自らの手で林美作を討ち取った。
「林美作をつき臥せ、頸とらせられ」
これで、勝敗が決まった。
信長は、南へ向つて、林美作口へかかゝり給うところに、
黒田半平と林美作、数剋切り合ひ、半平、左の手を打ち落され、
互に、息を継ぎ居り申し侯ところへ、
上総介信長、美作にかゝり合ひ給ふ。
其の時、織田勝左衛門御小人のぐちう杉若、働きよく侯に依つて、
後に、杉左衛門になされ侯。
信長、林美作をつき臥せ、頸とらせられ、御無念を散ぜられ、
信長は、勝った。
柴田・林両勢を追い払った。
両共、以て追ひ崩し、
さて、手々(てんで)に馬を引き寄せ々々々々、打ち乗りて、
追付(おっつけ)々々、頸を取り来たり、
其の日、清洲へ御帰陣。
翌日、首実検。
大勝利であった。
とは言え、同じ家中。
しかも、身内どうし。
「無益」
そう、思った。
信長は、深追いせず。
これ以上の損耗を避けた。
翌日、頸御実検候へば、
林美作頸は、織田上総介信長討ちとり給ふ。
鎌田助丞、津田左馬丞討ちとる。
富野左京進、高畠三右衛門討ちとる。
山口又次郎、木全(きまた)六郎三郎討ちとる。
橋本十蔵、佐久間大学討ちとる。
角田新五、松浦亀介討ちとる。
大脇虎蔵・かうべ平四郎、初めとして、歴々頸数四百五十余あり。
信長は、那古野城と末盛城の城下を焼払った。
信長は、この勝利を国中に示した。
当主は、己。
ただ一人。
是れより後は、那古野・末盛、籠城なり。
此の両城の間へ、節々(たびたび)、推し入り、町口まで焼き払ひ、
御手遣ひなり。
信長は、信勝を赦した。
母、土田氏は、信勝とともに末盛城にいた。
その母の詫び言である。
そのことも、あった。
だが、そればかりではなかろう。
信長とて、人の子。
当然、「骨肉の情」はあっただろう。
否、あった。
信長の御袋様、末盛の城に、御舎弟勘十郎殿と御一所に、
御座侯に依つて、
村井長門(貞勝)・島田所之助(秀満)両人を、清洲より、
末盛へ召寄せられ、
御袋様の御使として、色々様々、御詫言にて、
御赦免なされ、
勘十郎殿・柴田権六・津々木蔵人、墨衣にて、
御袋様御同道にて、
清洲において、御礼これあり。
信長は、林秀貞を赦免した。
大罪である。
太田牛一は、処罰されて然るべし、と言っている。
ところが、信長は、これも赦した。
何よりも、家中の統率を優先した。
この頃は、まだ、寛容だった。
林佐渡守事、
是れ又、召し出だされまじき事に候へども、
先年、御腹めさせ候刻(殺害しようとしたこと)を、
佐渡、覚悟を以て申し延べ侯。
其の子細をおぼしめし出だされ、
今度、御宥免なされ侯なり。
(『信長公記』)
信長は、執念深い。
しかし、信長は、この時のこと忘れなかった。
それは、二十四年後にやって来る。
天正八年1580、八月。
佐久間信盛の一件。
その事件は、これに関連して起きる。
【参照】4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 10 11 12 13
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これらについては、後述する。
⇒ 次へつづく 第110話 13上総介信長 8兄、信広の謀叛
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