本能寺の変1582 【 重史 017 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【 重史 017】『信長公記』
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*加筆修正
【 重史 016】さる程に、不慮の題目出来侯て、←
【 重史 017】 ◎第1話 ◎小
漸(ようや)く、夜も明け方に罷りなり侯。 『信長公記』
光秀は、中国攻めを取り止めた。
軍勢の一部は、すでに西へ向けて進発していた。
光秀は、これを引き戻した。
亀山より中国へは、三草越えを仕り侯。
爰(ここ)を引き返し、
東向きに馬の首を並べ、
老の山へ上り、
山崎より摂津国地を出勢すべきの旨、
諸卒に申し触れ、
談合の者どもに先手を申しつけ、
六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、
右へ行く道は、山崎・天神馬場、摂津国皆道(街道)なり。
左へ下れば、京へ出る道なり。
爰(ここ)を左へ下り、
桂川打ち越し、
漸(ようや)く、夜も明け方に罷りなり侯。
(『信長公記』)
→【 重史 043】③是非に及ばず
⇒ 次へつづく
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