本能寺の変1582 第95話 13上総介信長 2富田聖徳寺 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第95話 13上総介信長 2富田聖徳寺
道三と信長が富田聖徳寺で会見した。
天文22年1553、四月。
舅と婿。
初めての顔合わせだった。
信長は、二十歳。
道三は、五十~六十歳ぐらいか。
道三からの、申し出であった。
これもまた、名場面である。
一、四月下旬の事に侯。
斎藤山城道三、富田の寺内、正徳寺まで罷り出づべく侯間、
織田上総介殿も、是れまで、御出で侯はゞ、祝着たるべく侯。
対面ありたきの趣、申し越し侯。
此の子細は、此の比(頃)、
上総介を偏執侯て、聟殿は大だわけにて侯と、
道三前にて、口々に申し侯ひき。
左様に、人々、申し侯時は、
たわけにてはなく侯と、
山城、連々申し侯ひき。
見参侯て、善悪を見侯はん為、と聞こへ侯。
信長は、これを請けた。
信長に、異論はない。
道三の申し出を快諾した。
上総介公、御用捨なく御請けなされ、
木曾川・飛騨川、大河に舟を渡し打ち越え、御出で侯。
道三は、信長の風体を見定めようとした。
これもまた、「戦」。
舅と婿の、一騎討。
道三は、会見の前に、信長の「様体」を下見しようとした。
信長は、道三ならば、そうするだろうと思った。
富田と申す所は、在家七百間(けん)これある富貴の所なり。
大坂より、代坊主を入れ置き、
美濃・尾張の判形(はんぎょう)を取り侯て、免許の地なり。
斎藤山城道三存分には、実目(じちめ=まじめ)になき人の由、
取沙汰候間、
仰天させ侯て、笑はせ侯はん(=笑ってやろう)との巧にて、
古老の者、七、八百、
折目高なる肩衣(かたぎぬ)、袴、衣装、公道なる仕立(=正装)にて、
正徳寺御堂の縁に並び居させ、其のまへを上総介御通り侯様に構へて、
先づ、山城道三は町末の小家に忍び居りて、信長公の御出での様体を
見申し侯。
(『信長公記』)
其の時、信長の御仕立。
「噂」の通り。
「大うつけ」の姿であった。
其の時、信長の御仕立、
髪は、ちやせん(茶筅)に遊ばし、
もゑぎ(萌黄)の平打にて、ちやせんの髪を巻き立て、
ゆかたびら(湯帷子)の袖をはづし、
のし(熨斗)付の大刀・わきざし、
二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、
ふとき苧なわ、うでぬき(腕抜き)にさせられ、
御腰のまはりには、猿つかひの様に、
火燧袋・ひようたん七ツ、八ツ、付けさせられ、
虎革・豹革、四ツがわり(変わり)の半袴をめし、
信長は、弓・鉄砲を五百挺持っていた。
道三の、両眼がギラついた。
知る者ぞ、知る。
御伴衆、七、八百、甍を並べ、健者(すくやかもの)先に走らかし、
三間々中柄の朱やり、五百本ばかり、
弓・鉄炮、五百挺もたせられ、
(『信長公記』)
力こそ、正義。
信長は、このことを知っていた。
弓・鉄炮*、合わせて、「五百挺」である。
鉄炮だけの数は、わからない。
太田牛一は、初戦「赤塚の戦い」・第二戦「萱津の戦い」の箇所で、
鉄炮について、全く触れていない。
ここで、いきなり、登場する。
信長の織田家は、経済的に裕福だった。
おそらく、二度の戦いを経て、ダイナミックな兵制改革・軍備増強を、
急ピッチで断行したのではないか。
信長の軍勢は、飛躍的に、強化されていた。
*【参照】第83話 12光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代
鉄炮伝来。『鉄炮記』
【参照】第90話 12光秀と斎藤道三 5光秀の三十代
この頃、鉄砲が普及し始めていた。「言継卿記』
【参照】第92話 13上総介信長 1信秀の死
「鉄炮」について、記述なし。
⇒ 次へつづく 第96話 13上総介信長 2富田聖徳寺
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?