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本能寺の変1582 第108話 13上総介信長 7弟、信勝の謀叛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第108話 13上総介信長 7弟、信勝の謀叛 

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信勝に、謀叛の噂が立った。

 同、弘治二年1556
 五月。
 不穏な「噂」が流れた。
 筆頭家老、林秀貞が信長を見限り、弟、信勝を擁立すると云う。
 となれば、「謀叛」。
 「火のない所に煙は立たず」、である。 

  一、さる程に、信長公の一おとな(長)林佐渡守・其の弟林美作守・
    柴田権六(勝家)、申し合せ、
    三人として、勘十郎(信勝)殿を守り立て侯はんとて、
    既に、逆心に及ぶの由、風説執々(とりどり=いろいろ)なり。

信長は、那古野城に出向いた。

 城代は、林秀貞。
 信長は、気づいていた。
 なれど、それには触れず。

  信長公、何とおぼしめしたる事やらん、
  五月廿六日に、信長と安房殿(織田秀俊)と唯二人、
  清洲より、那古野の城、林佐渡所へ御出で侯。

林兄弟は、信長の殺害を企てた。

 しかし、躊躇した。 
 「三代相恩の主君」、とある。
 林秀貞は、譜代の家臣。
 思い切れぬものがあったのだろう。
 これは、成らず。

  能き仕合せにて侯間、御腹めさせ侯はんと、弟の美作守申し侯を、

  林佐渡守、余りに、おもはゆく(恥知らずなことと)存知侯歟、
  三代相恩の主君を、おめおめと爰にて手に懸け討ち申すべき事、
  天道おそろしく侯。
  とても、御迷惑に及ばるべきの間、
  今は、御腹めさせまじきと申し侯て、
  御命を助け、信長を帰し申し侯。

林兄弟の謀叛が明らかになった。

 信長の足下に、火がついた。
 正に、「内憂外患」。
 危急存亡の秋(とき)。
 白刃の上を歩むが如し。
 
  一両日過ぎ侯てより、御敵の色を立て、
  林与力のあらこの城、熱田と清洲の間をとり切り、御敵に成る。
  こめの(米野)ゝ城・大脇の城、清洲となご屋の間にあり。
  是れも、林与力にて候間、一味に御敵仕り候。

信勝が敵対行動に出た。

 同年、八月。
 
「噂」が真実になった。 
 林兄弟・柴田勝家に煽られ、信勝は、その気になった。
 自己の野心を抑え切れなかった。
 信長の直轄地、篠木三郷(愛知県春日井市)を押領。 

  一、林兄弟が才覚にて、御兄弟の御仲不和となるなり。
    信長御台所入りの御知行、篠木三郷、押領。

信長は、名塚に砦を築いた。

 佐久間大学を入れ置く。

    定めて、川際に取出を構へ、川東之御知行、相押ヘベく候の間、
    其れ以前に、此の方より、御取出、仰せ付けらるべきの由にて、

    八月廿二日、お多井川*をこし、名塚*と云ふ所に、
    御取出仰せ付けられ、佐久間大学、入れおかれ侯。

     *お多井川 庄内川
     *名塚   名古屋市西区名塚町

信勝方は、千七百余。

 柴田勝家と林美作が出撃した。
 その数、千七百余。
 名塚砦へ向かった。

  翌日、廿三日、雨降り、川の表十分に水出で侯。
  其の上、御取出御晋請首尾なき以前と存知侯歟、
  柴田権六人数千計り、林美作勢衆七百計り引率して、罷り出で侯。

信長の御人数、七百には過ぐべからず。

 これが、その頃の全兵力だった。

  弘治二年丙辰八月廿四日、
  信長も、清洲より、人数を出だされ、
  川をこし、先手あし軽に取り合ひ侯。

  柴田権六、千計りにて、いなふ(同西区稲生町)の村はづれの海道を、
  西向きに、かゝり来たる。
  林美作守は、南、田方より、人数七百計りにて、
  北向きに、信長へ向つて掛り来たる。

  上総介殿は、村はづれより、六、七段きり引きしさり(下がり)、
  御人数備へられ、
  信長の御人数、七百には過ぐべからずと申し侯。
  東の藪際に、御居陣なり。
                          (『信長公記』)


 ⇒ 次へつづく 第109話 13上総介信長 7弟、信勝の謀叛 


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