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本能寺の変1582 【 重史 21 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【 重史 021】『信長公記』

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
その一因 目次 
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【 人物 】 
*加筆修正 

【 重史 021】 ◎第74話   ◎小74

①今度、間近く寄り合ひ侯事、天の与ふるところに侯間、
②中国の歴々討ち果たし、
③九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、
④ (惟任日向守) 先陣として、出勢すべきの旨、
                       『信長公記』

【 重史 020】
 信長は、この好機を逃さない。
 即座に、決断した。

  信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、
  今度、間近く寄り合ひ侯事、天の与ふるところに侯間、
  御動座なされ、

 信長は、毛利を滅ぼすつもりだった。
 さらに、九州を平定しようとしていた。

  中国の歴々討ち果たし、 
  九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、
  
上意にて、
  堀久太郎(秀治)御使として、羽柴筑前かたへ、条々仰せ遣はされ、

 信長は、光秀に先陣を命じた。

  惟任日向守・長岡与一郎(忠興)・池田勝三郎(恒興)・塩河吉(橘)大夫・
  高山右近(重友)・中川瀬兵衛(清秀)、
  先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち御暇下さる。
                          (『信長公記』)


 【引用】◎第74話 そ第78話⑦



 ⇒ 次へつづく


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