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本能寺の変1582 【 重史 23 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【 重史 023】「当代記」 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
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【 人物 】 
*加筆修正 

【 重史 023】 ◎第77話   ◎小77

①時に、明知、齢(よわい)、六十七、
②齢(よわい)、六十七、 
                       「当代記」

 光秀の年齢について、「当代記」には、六十七歳とある。
 すなわち、永正十三年(1516)の生れと言っている。
 しかも、二ヶ所にその記述がある。
 場面は、ともに、山崎の合戦直後。

 ①一ヶ所目。 

  抑(そもそ)も、明知日向守光秀は、一僕(召使)の者、
  朝夕の飲食さへ乏しかりし身を、

  信長、取り立て給ひ、
  坂本の主として、其の上、丹波国一円、下され、
  懸かる不思議、存立の事、是非に及ばざる次第なり、

  忽(たちま)ち、天責(天罰)を蒙り、
  同(六月)十三日に相果て、跡かたなく成る、
  時に、明知、齢(よわい)、六十七、

 ②二ヶ所目。

  同六月十三日、合戦、
  明知、則ち、敗北、
  坂本の城に、引き入るべきの旨、存じ歟(か)、
  山科に於いて、逃げ来たり、
  百姓等に打ち殺さるゝ、
  齢(よわい)、六十七、

【引用】◎第77話



 ⇒ 次へつづく


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