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本能寺の変1582 本能寺への道5 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

本能寺への道5 

はじめに ←目次 ← 
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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 目次中 一、光秀の年齢と嫡男光慶 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【 重要史料 】 【 人物 】  
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

そ第78話⑯
 六月一日
 中国出陣の日。

 これが最後のチャンス!!
 全ては、計画の通り。

 明智軍が、集結していた。
 
総勢、一万三千という。
 となれば、兵站に関わる人・馬等もかなりの数になっただろう。
 おそらく、雑踏状態。
 亀山は、兵士たちで、溢れ返っていた。

 光秀は、行動を開始した。
 頼りとするのは、己のみ。

 光秀は、出来る男。
 万事につき、抜かりはない。
 計画は、緻密だった。

 光秀は、出陣を命じた。
 「三草越え」は、山中の、細い一本道 (現国道372号) 。
 何しろ、大軍勢。
 明智軍は、幾隊(組)かで、編成されていた。
 おそらく、光秀は、それらを、うまく利用した。
 すなわち、「時間稼ぎ」。

 「出陣」

 隊列の順序・人数・軍容、兵・荷駄等々については、よくわからない。
 如何様にも、調整出来ただろう。
 
 何れにしても、夜に入ってから、それらを引き戻している。
                     →【重史 017】(『信長公記』)

 信長は、猜疑心が強い。
 常に、目が、光っていた。

 光秀は、そのことを、よく知っていた。
 それ故、報告には、特に、気を遣っていた。

 光秀は、報告の仕方が上手だった。
 
信長は、これに、大いに満足していた (①②) 。

 ①「細川家文書」
  天正二年1574七月二十九日付「明智光秀宛て織田信長黒印状」。
 ②『信長公記』
  天正七年1579八月九日条、丹波黒井城攻めの場面。

 信長は、多忙をきわめていた。
 光秀は、その進行状況等について、信長が、掌握しやすいように、
 配慮しつつ、わかり易く、かつ、詳細に、「報告」していた。
 これが、光秀の常だった、のである。

 となれば、中国出陣についても、それは、同じ。

 光秀は、信長へ、出陣を報せた。
 
いつもの通りに、・・・・・。
 おそらく、そうだったのではないか。

 だとすれば、・・・・・。
 光秀は、信長を騙したことになり。
 信長は、光秀に、騙されたことになる。
 →「是非に及ばず」◎第2話

そ第78話⑰
 同日
 本能寺に、多くの公家たちが参集した。
 
御礼、すなわち、ご機嫌伺い。
 この中に、山科言経もいた。
 その日記「言経卿記」によれば、以下の面々である。

 近衛前久・同信基、九条兼孝・一条内基・二条昭実・
 聖護院道澄・鷹司信房・・・・・

 以上、合計四十名。
 さながら、御所の如し。

 信長は、きわめて上機嫌だった。

 雑談は、数時間にも及んだ。

 信長は、光秀の不穏な動きに、全く、気づいていなかった。

 これすなわち、信長の油断。

そ第78話⑱
 同日、夜
 光秀は、決断した。

  さる程に、不慮の題目出来(しゅったい)侯て、

  六月朔日、夜に入り、
  丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、
  ・・・・・
  (中略)
  ・・・・・
  漸(ようや)く、夜も明け方に罷りなり侯。
             【 重史 016】 【 重史 017】 (『信長公記』)

 同、二日未明
 「本能寺の変」

   【参照】1信長、死す 是非に及ばず
       ◎第1話 ◎第2話 ◎第3話


【参照】その一因 一、光秀の年齢 2光秀の年齢 6人格形成
  そ第78話⑯  そ小78⑯    テ第78話  ◎第78話 第78話
  そ第78話⑰  そ小78⑰    テ第78話  ◎第78話 第78話
  そ第78話⑱  そ小78⑱    テ第78話  ◎第78話 第78話



 ⇒ 次へつづく

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