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本能寺の変1582 【 重史 013 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【 重史 013】「兼見卿記」

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【 重史 013】 そ第7話①

惟日、以ての外の所労に依り皈(帰)陣、在京なり、 「兼見卿記」

 天正四年1576、五月。
 光秀は、重篤な状態だった。
  
  廿三日、乙卯(きのとう)、
  惟日、以ての外の所労に依り皈(帰)陣、在京なり、
  罷り向かふ、
  道三(曲直瀬)療治と云々、

 光秀の妻が祈祷を依頼した。
  
  廿四日、丙辰(ひのえたつ)、
  惟日祈念の事、女房衆より申し来たる、
  撫物(なでもの=祈祷のための人形など)以下の事、
  一書を以って、返答。

 信長は、使者を派して光秀を見舞った。
 
  廿六日、戌午(つちのえうま)、
  夜に入り、惟日女房衆より、大中寺(光秀の家臣)を以って、
  祈念の事、申し来たる、

  惟日御見廻りとして、左大将より、埴原(新右衛門)御使と云々、
                          (「兼見卿記」)

 【人物】吉田兼見
  兼見は、吉田神社の神主。
  天文四年1535の生まれ。
  細川藤孝の従弟。
  年齢は、一つ下。
  光秀と親交が深い人物である。
  信長との交流もあった。
  日記、「兼見卿記」を著した。


 【引用】そ第7話① ◎第7話 第7話



 ⇒ 次へつづく


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