本能寺の変1582 【 重史 012 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【 重史 012】「寺尾菊子氏所蔵文書」
←はじめに ←目次 ←【 重要史料 】 ←
→重要 ◎目次 重要 ◎目次小
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親
→その一因 目次
→見えてきたもの 目次
*加筆修正
【 重史 012 】 ◎第58話②
①今度、四国に至って差し下すに就きての条々、
②信長、淡州に至って出馬の刻、
「寺尾菊子氏所蔵文書」
天正十年1582、五月七日。
信長は、三男信孝に、四国への出陣を命じた。
以下は、その時の書状である。
この中に、「信長、淡州に至って出馬の刻」とある。
おそらく、信長は、織田水軍を率いて、淡路島から、瀬戸内を、西へ向か
うつもりだったのだろう。
その先にあるのが、安芸の宮島 厳島神社である 。
歴史に残ったであろう、一大デモンストレーション。
華々しい大船団の様子が目に見えるようである。
今度、四国に至って差し下すに就きての条々、
一、讃岐国の儀、
一円、其方に申し付くべき事、
一、阿波国の儀、
一円、三好山城守 (康長) に申し付くべき事、
一、其外両国の儀、
信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事
右の条々、聊(いささ)かも相違なく相守り、
国人等の忠否を相糺(ただ)し、
立置くべき輩は立置き、追却すべき族は追却し、
政道以下堅く申し付くべし、
万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、馳走すべきの事、
忠節たるべく候、
能々(よくよく)、其意を成すべく候也
天正十年五月七日 ( 朱 印 )
三七郎殿
(「寺尾菊子氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」)
⇒ 次へつづく
NEW!!
目次 が更新されました。
これで、全体像がよくわかる!!
毎日更新!!
原因・動機の究明は、この一歩から!!
重要 ◎目次 が更新されました。
「本能寺の変」
原因・動機は、この中にあり!!
ご注目下さい!!
テーマ別 目次 が更新されました。
視点を変えれば、見える景色も違ってくる!!
見えてきたもの 目次 が更新されました。
これで、さらに、一歩、近づいた!!
ご期待ください!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?