だから、書き残したくなるんだ。
おはようございます。
「毎週月曜日に投稿する。」
と宣言したわりには2週連続すっぽかした。
そんなもんか。
「宣言する」
は、私には有効では無いようだ。
***
前回の続きを書きます。
「なぜ私は書くのか」をテーマにいろんな方が「書く理由」をnoteにした。
一つ二つ覗くと、
これは、他のも見たい!
見たほうが良い!
見ないと損する!
と思ったので、中間選考突破作品を全部読んだ。
で、僭越ながら「いいな!」と思ったらコメントさせてもらった。
noteのいいところは「コメント」機能があるところだと思っている。
その点でいうとXやInstagramと同じだが、noteには
文章リテラシーの高い人が集まっている。
文章を推敲する癖のある人たちの集まり。
だから居心地がいい。
本人に伝えたのだから、記事にする必要はあるのか?という問いが生まれる。
自分でもよくわからない。
けど、とにかく書き残して置きたい。
「いいね」の
親指タップで終わらせてたまるものか。
「良いな〜〜〜!!!これ!!!」
と思ったnoteには、気がついたときにはコメント欄にテキストを打ち込んでいた。
宣伝したいというより、書き残しておきたい。
やっぱ良いものは良い!と伝えたい。
そして良いものはちゃんと適切に広まってほしい。そう思う。
なのかなとも。
なので作品の感想を書きます。
*******
1くつ さん
結果が出た後なのでなんとでも言えるが、
中間選考通過作品を、ちょいちょい閲覧していた時
「あ、これが獲るな。」
と思った。
少女マンガの、あの甘酸っぱい感じ。
ネトフリの恋愛リアリティショーでの
リアルな恋路とはまた違う。
The あおはる。
高校生のとき、中学から好きだった男の子がいた。で、今思うとあれは多分、恋していた。
「え?この感情は”好き”ってヤツなのか??」
「なんでもいいから話せるの楽しいニヤける。」
「え〜〜他の女子とは楽しそうに喋らないでよ〜」
「どうしよう、もう自分から告っちゃおうかな。」
相手に気持ちを伝えるのに、自分の感情と向き合った。
このきもちはなんだろう。
自分の心内を丸裸にして、それを外にだす。
こんな一世一代あるか。
一週間悩んだ。
本気で悩んだ。
でも、もたもたしていたからか、
他の女子が告白してしまった。
彼もOKしたらしい。
私はリングに上がることすらできずに敗北した。
悲しかったなぁ。
お風呂と布団の中で大号泣した。
***
文字は言葉とは違い、
書いては消し、書く。ができる。
推敲ができる。
何度でも。
推敲回数が多いほど、
自分の気持ちを適切に文字表現できるようになる。
より自分らしくなっていく。
すると自分でも知らなかった新しい自分に出会える。
恋の相手はまだ出逢っていない自分自身だろうか。
もう、周りの目を気にする高校生じゃない。
他人の視線なんて気にしない。
なんで書くか。好きだからだよ。
好きの気持ちは誰にも止められない。
2 元町ひばりさん
結局苦しい時を救ってくれるのは、自分なんだよ。誰も助けてくれない。
かわいそうだね、とか
大丈夫?とか
声をかけてくれる人はいるかもしれない。
だが、それが苦しむ自分を助けてくれるかというと、疑問が残る。
「自分はひとりじゃないんだ」という悲劇のヒロイン様の孤独感からは救ってくれるかもしれない。
しかしそれは応急手当みたいなもの。
根本解決にはならない。
何が私を苦しめているのか、
私に何が足りないのか、
向き合うのは苦しい。
できない自分を丸裸にして、対峙する。
苦しくて目を背けたくなる。
けど、乗り越える為には、逃げちゃダメなんだ。
その時間を経てはじめて
自分で自分を救うことができるんだと思う。
ドアを探すな。
手の中にある鍵がどんな形をしているか、
しっかり見つめて確かめないと、
つぎのドアは開かないよ。
3shiiimoさん
タイトルの「優等生のフリ」にグサり。
私も小中学生時代は優等生だった。
物静かで、何もしなくてもテストで100点がとれた。今思うと、ちょっとした欠点があっても目をつぶってもらえていたのかな、と思う瞬間もあるが、
成績優秀で生徒会に立候補するくらい優等生だった。
だが高校でやられた。
今までのやり方が通用しなくなった。
キャパオーバーだ。
どうしたらこの泥沼から抜け出せるか、助けを呼ぶ、その助けの呼び方も分からず、一人で悶々とした。
その結果、センター試験で失敗し、国立大学は受からなかった。
あの独特の緊張感に咽まれてしまった。
あ〜〜ぁあ、私、優等生だと思ってたのに。
全然じゃん。
でもやりたいことは決まってた。
有機化学を勉強したかった。
その研究室に入れるよう、舵を切り直した。
それを経て今がある。
結果的に私立で良かった。
大学生になってから、私は本当の自分をさらけ出せた。
優等生フィルターが外れたのだ。
もし国立に行ってたら、遊べるときに遊ばなかった、遊び方を知らない大人になるところだった。
波長の合う友達もできた。
社会人4年目にして「明日、あーそぼ!」
と声を掛けると
「うん、いいよ!」
と二つ返事で会ってくれる友達もできた。
いい友をもった。
大学時代を思うと、この気軽さに泣けてきた。
小中高、大学もかな。
こうすれば「正解」な像は、ある程度存在する。
だが一步社会に出たら、学生時代の成功体験なんて通用しない。
正解はない。
そもそも解なし。
連立方程式の2つの直線又は曲線が全く交わらない。
ない、が正解。
こうあるべき姿なんて、もうない。
よくわからないものに縛られているほど、
人生長くない。
うまくいかない時しかない。
でもそれが自分。
ダメな自分。でもそれが自分。
伸び代しかない。
自分で自分を愛してあげようぜ。
4イクミリコさん
「お前にいってねーよ」
これ、言われたことあります?
小学生男子の声で再生された。
誰かに〜とはおこがましいがそれでも
「あなたが良い!」と選ばれると、
やっぱり嬉しい。
心が嬉しいということは、求めているということか。
その状態になって湧き上がる感情に焦点を当てることで、新しい自分の一面がわかる。
大多数でない、「わたし」にむけたことば。
「わたし」にエネルギーを注いでくれることって
嬉しいんだよ。
まずは4作品。
自分の経験則に通づるものがあったから余計に私の心に突きささった。
これは時折読み返す作品たちになると思う。
まだまだあるので続きはまた今度。
***
2024/12/22追記
思っていたよりしっかりとしたコメントをいただけて、心底驚いている。
ハッシュタグに「今年の学び」をつけた。
今年の1月にnoteを始め、はじめは心思うままにポツポツ投稿していた。
それも良かったが「なぜ、書くのか」のコンテストに参加した夏〜秋に世界は一変した。
しっかり取り組もうと思うと、己としっかり向き合わなければならなかったからだ。
向き合うと、必ず己の負の感情と対峙した。
自分の「なぜ」を書く。
他の方の「なぜ」を見に行く。
コメント欄に感想を伝える。
感想の感想をいただく。
他の方の「なぜ」を紹介する。
紹介したことで紹介noteへの感想をいただく。
いただいた感想にまた感想を伝える。
結構くどいことをしている。気がする。
いや結構くどい。
けれどここまでしたからこそ、いろんな方の「なぜ」を知り、持ちえていない視点や表現方法を見つけることができた。反対に、自分にある視点は強みであることがわかった。
自分の世界以外のことを知ることで、自分分析ができた。深みを増した。
自己分析は就活や婚活だけすればもうしなくていい、というわけでは無さそうだ。
自己分析には終わりがないこと。
これが一番の学びだ。
「書く」
とてもシンプル。
「なぜ書くのか」
と問われると、なんでだろう。
なんでだっけ。
特に理由はないけど書きたいんだよね。
「特に理由はないけど」
そんなわけ無かった。
自分の心が動いた時の音をしっかり聴く。
すると自分が
何を求めていて、
何が嬉しくて、
何に怒れて、
何がしたいのか、
音にフォーカスをあてると、
本当の自分の音が聞こえてくる。