与えているようで、求めている
見えないものを扱うのは本当に一筋縄ではいかない。どうしようもなく、自分の内側からやって来たものに溺れそうなとき、人は必ず自分のことを外側から見られない。
どんな人間にも存在していて、とても身近な見えないもの=「心」について理解しようとする時
人はどういったことを思いつくだろうか。
「善い心」というものの、大まかな概念や知識を教育という過程の中でインプットして来た我々は「人に喜んでもらうこと」や「人に迷惑をかけないこと」を提唱されて来たように思う。
さらには、「人のためなること」「人の役に立つこと」が“素晴らしい人間”の模範解答なのだと教え込まれて来た。そうやって育った私達は、「人に何かを与えること」を優先して考えることが“大人”なのだということを疑わなくなった。
人を愛したいと思う時「自分を差し置いた誰か」=自分の大切な存在に幸せになってほしいと願うわけだが、本当の意味で人を愛すること、他者へ何かを与えることができるのは、自分の心にある一定の『ゆとり』が存在する者だけだ。
この『ゆとり』を持っている者とは、100%自分で自分を満たすことが出来ている人だと思う。
自分を満たさずして、それ以上のものを救うことなんてできないことを分かっている人だ。
つまり、どんなに大切な人を愛したいと想いを掲げても自分を満たさずして人へ愛を届けることは出来ないということである。
『先ずは自分が満たされること』これ以外に根底から人を愛せる術はない。
自分を存分に満たしきって、満ち足り溢れた分だけを他者に分けることが出来る。それも「与えよう」と思ってするものではなく、“自然と周りに伝わっていくもの”なのだ。
そういったことが見えていないと、「与えるという意識的な行為」は、満たされない心の邪気を相手に投げつけるだけの自分本位な偽善者を生む。そこから発生したものでは何もいいものは循環しない。
自分の心の状態が整っていないのに「人に与えたい」と執拗に思うことは、「人に自分の心の穴を埋めてほしい」と強く求めていることと変わらない。
本人は気付いていないかも知れないが、こういった、“与えているようでいて、実は求めている”人がたくさん居る。
与えていたつもりでいて、周囲からエネルギーを奪っている。
他人に集中している間は、自分の心と向き合わなくて済むため、そういった方向へ傾いてしまうのかもしれない。
だが、自分の枯渇した心を放置したままで芯からしあわせになれるほど、人生は甘くないだろう。
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