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亀の時間🐢エッセイ

私の日常でのモーニングルーティンというやつは、もっぱら川の亀を数えることから始まる。
川に生息する野生の亀は、とても豊かに仲良く肩を寄せ合っていてまるで大きく動く様子はなく、いつもそこにいる。雨の日なんかはいつもの場所に居ないから、ちゃんとハウスたるものは存在するのかもしれないが、いつ見つめてみても『そんなことはなんてことない』とでもいう風に、今日も亀たちはとびきりのんきだ。亀の時間(亀の世界)そのものがのんびりなのか、亀の体感時間が人間とはズレているのか?は、よく分からないが、私が思う亀の時間=膨大な太さの時間といった視点から見ると、自分の少しの落ち込みなんて、とてもちっぽけなものなんだろうと思えて来る。

そういえば、先月読んだ小説に『亀の重さは時間なんです。』といったセリフが登場した。私自身、亀を手に持ったことの記憶はかなり昔だが、たしか手のひらに収まるサイズのわりにずっしりとした重みだったように思う。亀はいつだって、まるで私たちとは時間の経ち方が違う世界に生きているみたいにゆったりと時間を過ごしている。せわしない日々を送る人間が“静の時間”をすごそうと見習うのには、きっと亀がぴったりだろう。

人間は亀ほどのペースではとても過ごせないが、“何をしている時間なのか”によって、体感時間というものが変わることは、日常的に起こる。
楽しい時間は瞬く間に過ぎて行くし、退屈な時間なんかは、一時間の間に何度も時計を見てしまう。これは、自分の感情感覚や体感が『心地よい』か「そうでないか」によって決まるのだ。

私は『休日』という日の中でも、日によってそれが変わる。といっても、面白いことに私の日常には現在『休日』しか存在しない。つまり正確には『毎日の休日』なのだ。
まず一つとして、まず目覚めが良くない、つまり睡眠が浅く寝た体感がしない日の朝なんかは、その日はずっと一日が長い。
そして、次なる条件としてはやはり体調が優れない日、または精神状態が波打つ日だ。
とても長く、何をしようという気も起こらないから何もしないのだが、その“何もしない”がとても長く感じる。
調子のいい日は、この“何もしない”が心地いいのだ。だが、もちろん“何もしない”とは言っても、生活に纏わるいろいろなこと、スーパーへの買い出しやトイレ掃除、洗濯物を干したり消耗品の補充など、外へ出ることも家ですることは存在する。
このわずかな外出のついでに、少しだけ遠回りをして川の景色を眺めたり、まだ使ったことのない小道を敢えて選んでみたりして、生活範囲での『小さな発見』をすることがとても良い気分転換になったりする。たとえば“この外観はいいな”と思ったおうちを見つけると、なんだかワクワクするし、散歩している犬が可愛い服に身を包んでいるのを見ると、“犬でもあんな柄の服があるんだな”とおしゃれ度を見習ったりもする。その辺りを歩いているお婆ちゃんと仲良くなったり、登下校で楽しそうに話している小学生の背中を見るのも好きだ。亀を数えるというのも、散歩や外出のついでにと眺めていたのが習慣となり、いつのまにか日課のひとつとして馴染んで来たものである。

はたまた、今日みたいに、ほどよい太陽のぬくもりを見上げひなたぼっこ気分の昼寝をしていたら気づくと4じが迫っていたり。こんな風にただ自分の視界から見える風景を五感を使いながら楽しんでいると、時間が経つのはとてもはやく感じる。


『毎日の休日』『野生の亀』『のんきなひる寝』とは今の私にぴったなワードではないだろうか。日常での面白さの変換ワードを見つけられることも、このゆとり時間が生み出してくれた豊かさのひとつだ。ここで私のルーティン話は以上としよう。

🔽とある夏の休日と、食欲記録。

🔽過去と今の体感から得たこと。


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