破壊と崩壊。
ドミノの動画を観て思った。
私たちは破壊や崩壊をとても恐れるが、こうしてひとつがきっかけになって何かがバラバラと崩れてゆくことは、常に誰の人生でも起こり得ている。
たったひとつのピースを動かしたことにより、そこから続いて派生してこれまでの習慣や積み上げて来た現実といったピースたちが崩壊する。私たちは一見「悪い」としか捉えられない事柄が起こると、たちまち混乱しては自分の人生を嘆きたくなる。
だけどこの破壊は、長い目といった視点から眺めてみると決して悪いものじゃなく、崩れて更地になったその場所へ新しい道が見える(これまではあったけど見えていなかったものを含めて)ために「もう合わなくなった過去」が分かりやすく壊れたというだけなのだ。
それは、『今とこれからのあなた』にはもうふさわしくないということ。だけどこれまでは必要だったもの。だから、その全てを完全否定しなくていい。
壊れたといことは、その時から同時に新しい自分(これまでは気づかなかったこと)を見つけられるチャンスでもある。
自分で何かを意図的に壊す=辞める、離れるなどができないと、現実の方が先に動いて「壊れる」という現象が起きて来る。変わるべきタイミングや変われる時期が来たときに、自主的に何かを先に手放せることは少ないように思う。なぜなら、人間は現状維持といった「これまで」を続ける方が楽だからだ。つい、変わらなくていい方向を選びがちになる。だから何かが壊れたその時は、もう変わらざるを得なかったりということになって『変わること』について考え動き始められるのである。
どちらがダメということはなく、ただ自主的に自分から手を離し、何かを変えられた方が結果的に自分が受けるダメージが少ないように感じる。
何か合わなくなったものへ固執し続ける姿勢は、今そうしたいと思っているのなら続けていいが、けっきょくいつかは何かが壊れて来るといった展開へつながっているのだ。
人は生きている上で何度もそれぞれに“変わるタイミング”というものがやって来る。
変わることは、本来はとても自然なこと。
もともと人間に限らず、この地球に存在するすべての物質や生き物は、“生涯”といった引きの視点から見ると“全ては変わってゆく”のだ。
どれだけ変化を楽しめるか?イレギュラーな展開をも楽しもうという姿勢を持てるか?ということが人生を謳歌する究極のコツなのかもしれない。
スケールの大きな世界規模のドミノ動画は、崩れてゆく様の滑らかさと迫力に見ていて気持ちよさすら感じる。倒れて来たピースがあって『今』の景色をみせてくれているし、これからも倒れたピースがリレーされて新しい景色を見せてくれる。何かがつながって破壊されてゆくのは、必ずしも「悲劇」ではないのだ。もちろん、その時はそうとしか思えなくても“変わることができる機会”を自然な展開で得られることは、自分では『思いもよらなかった景色』の道へ繋がっていたり、先になって振り返ってみると、意外にも“サプライズ”だったなと思えることすらあったりする。そして途方に迷うような地点にいる時ほど、大きく変わる可能性を秘めている。面白いことにいつだってサプライズには驚きがつきものなのだから。
🔽体が崩壊して再生するまでは長いという話。
🔽『人生は自分次第』ってたぶんこういうこと
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