
雑感記録(375)
【日常の機微、感傷的】
き‐び 【機微】
解説・用例
〔名〕
かすかなしるし。表面にはあらわれない、微妙なおもむき。幾微。
https://japanknowledge.com , (参照 2024-12-17)
仕事の昼休み。普段と変わらない日常である。大体13:00から13:30の間に会社を出て1時間の昼休憩。いつもの古本屋の2階に直行し、電子タバコを音楽を聞きながら3本蒸かす。だいたい1本5分ぐらいなので15分そこで過ごす。その後は古本を物色。文学のコーナーと哲学のコーナーを眺める。しばらくしたら古本屋を後にし、コンビニへ行きお決まりのリンゴ酢とスイーツを1品購入。そして会社へ戻り午後の仕事が始まる。
毎日毎日この流れは崩さず、同じ道順、同じルート、同じ場所、ほぼ同じ時間で過ごしている。今日もいつもと同じ行程で過ごす。しかし、どこかいつもと違う。それは心の持ちようなのか?と考えてみるが別に何かある訳でもない。体調が昨日よりも一昨日よりも優れているからか?とも考えてみたが朝からお腹がゴロゴロしており快調ではない。聞いている音楽がテンションの上がる曲だからか?とも考えてみたが…。普段通りの感じである。
外へ一歩踏み出す。何だか今日はやけに明るい。きっと陽射しが強いんだろうとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。歩いていつも通りの道順で喫煙所に向かって行く。しかし、どうも身体が落ち着かない感じだ。これは些か大仰な物言いかもしれないが、初めて出社した日の感覚が僕を襲う。街並みは一切変化はない。果たして僕の何が変ったのだろうか。やけに今日は街が鮮明に明るく見える。
このように一つの物が、視線の方角を換えることで、二つの別々の側面を持ってること。同じ一つの現象が、その隠された「秘密の裏側」を持っているということほど、メタフィジックの神秘を包んだ問題はない。私は昔子供の時、壁にかけた額の絵を見て、いつも熱心に考え続けた。いったいこの額の景色の裏側には、どんな世界が秘密に隠されているのだろうと。私は幾度か額をはずし、油絵の裏側を覗いたりした。そしてこの子供の疑問は、大人になった今日でも、長く私の解きがたい謎になってる。
(パロル者 1997年)P.26,27
そうかと少し合点がいく。これは先日購入した萩原朔太郎の『猫町』のせいだと。だが、僕は別に裏側を覗こうという気概は持っていない。言ってしまえばルーチンをこなしているに過ぎないのである。だから猶の事、僕には不思議で堪らなかった。僕が変ったのか、街が変ったのか。そんなことは無関係に時間というのは過ぎていくものである。僕はその違和感を抱えたまま喫煙所に向かって行く。
かんしょう‐てき[カンシャウ‥] 【感傷的】
解説・用例
〔形動〕
感情が異常に刺激されやすいさま。特に、感情を最も刺激する悲哀感に引き入れられる場合が多い。悲哀の感情におぼれやすいさま。感じやすく、涙もろいさま。センチメンタル。
喫煙所までは会社から歩いて10分ぐらいの場所にある。そこに向かうまで様々な人とすれ違う。普段であればとにかく自分のルーチンを遂行するために、すれ違う人々や立ち並ぶお店やビルなどには眼もくれない。しかしどうだろう。今日はやけにそういうものが気になって仕方がない。そそくさと歩くOLやスーツを格好良く着こなしている外国人3人組。杖を突きながらブツクサブツクサ何かを言いながら歩く老人。ランドセルを背負った小学生2人組がキャッキャ言いながら僕の傍を駆けて行く。
初めて出社した日もこんな感じだった気がする。この大都会。ビル群に囲まれた空間で種々雑多な人々が歩く。その中でサラリーマンたちの中に紛れて存在している生活感。「僕はここで生活して行くんだな」というあの初々しさとほんの少しばかしの戸惑い。心が落ち着かない。見知った場所が突如として見知らぬ土地として眼前に現れる。そんな感覚に何故か今日襲われているのである。
「慣れ」というものは恐ろしいものだなと他人事の様に思う。
毎日毎日同じような日々を過ごしていると、自分の頭で考える以前に身体が先に動くのだろうな、きっと。理性とか本能とかそういったものを越えた部分で、無意識に身体が動く。それに街は早々変わる訳ではない。特に都会、都心で生活しているとよく分かる。早々変わらないものに囲まれて、変わらない日常を送っていれば感覚の1つや2つぐらいは麻痺してしまうものではないだろうか。
少し話は逸れるが、都心に居ると季節感が分からなくなることがある。特に今年は秋→冬の過渡期の部分がほぼ存在しなかったことも大きい。そして何より自然の移ろいというものが殆ど見られない。「もう冬だね」というように季節が変化したことを判断するには気温の変化と季節の変わり目の体調不良しかない。というと大袈裟かもしれないだろうが、思い返してみるとそんな感じである。変化の母体数が都心では限られるのかもしれない。
だが今日はどうだろうか?そんな変わらない事物に囲まれ、ただ毎日のルーチンを消化する僕に突如としてやって来るこの変化は?こんなにも景色が変わることがこれまであっただろうか?いつも過ごしている場所がこれほどまでに突如としてインパクトを以てして僕に迫って来るではないか。うなぎ屋はいつも「仕度中」ではないか。クリーニング店で暇そうにしている店員。老舗の和菓子屋の店員はそれはもう素晴らしい笑顔を振りまく。そのお店から出てきた老人は嬉しそうだ。
狭いラーメン屋では所狭しとサラリーマンが肩を竦めながら麺を啜っている。その隣には「タイ式マッサージ」と書かれた看板が置かれ、夜でもないのに光を放つ。交差点のたばこ屋は人々の往来で立ち寄る人はいない。ただすれ違う為の緩急地帯として存在している。プルームテックのスティックが多いんだなと発見。僕は信号待ちをする。隣に立つ外国人は大きなリュックサックを背負っている。サングラスをしていて眼は見えないが、心なしか疲弊しているような感じだ。リュックに掛けられている橙色のカバーには穴が沢山開いている。彼は何処をこれまで旅して、ここ神保町に辿り着いたのだろう。
そうこうしている内に信号は青になる。
散歩
やめたいと思うのにやめられない
泥水をかき回すように
何度も何度も心をかき回して
濁りきった心をかかえて部屋を出た
山に雪が残っていた
空に太陽が輝いていた
電線に鳥がとまっていた
道に犬を散歩させる人がいた
いつもの景色を眺めて歩いた
泥がだんだん沈殿していって
心が少しずつ透き通ってきて
世界がはっきり見えてきて
その美しさにびっくりする
(朝日新聞出版 2013年)P.30,31
古本屋が並ぶ通り。古本屋は太陽を背に並ぶ。それには理由があって、本が日焼けしないようにである。本も日焼けをする。人間も本も日焼けは大敵なんだなと親近感が湧く。普段は「読む」ために購入するけれども、本そのものも僕等と同じ悩みを一部抱えているのかと思うとどこか微笑ましくなるものである。日陰は寒い。こういう日ぐらいは少し日光浴でもさせてみてはいかがかなと思うけれども、人間も同じなのかなって少しおかしくなる。
こちら側を歩くと先程とは違い、若者の往来が目立つ。もこもこのジャンパーを着た女性2人組。ミニスカートに長い黒のブーツ。絶対領域の寒さを想像する。そば屋から出てくるOL。手には赤い長財布。寒そうにコートの裾を精一杯伸ばそうと必死。そうだよな、寒いよな。と心の中で想いを馳せる。杖を突いた老人。赤のヘルプマークが目立つ。僕は道路側へ寄って歩く。薄手の服装みたい。見ているこちらが寒いよと言いたくなる。
いつもの喫煙所のある古本屋に着く。外に並ぶ古本は日毎に変化する。おじ様たちはそちらに群がり、若い女性や外国人はポスターに群がる。これは見慣れた光景。いつも変わらない。だけれども、やけに今日は人が少ない。やはりこの寒さには勝てないかと横目に店内に入る。と、店内の1階は誰も居ない。いつも眼にする店員さんが1人本をゴシゴシ磨いている。こういう方々のお陰で僕等は古本を綺麗な状態で読むことが出来るんだよな…有難いなと感謝しながら2階の喫煙所へ向かって、少し段差のある階段を一段一段昇って行く。
2階の小さな休憩スペースには1人の老人。赤と青の色をした帽子を被り、薄いジャンパーを羽織っている。ズズズズという音共に飲み物が老人の口に流れていく。そりゃそんな格好してれば温かい飲み物の1つや2つは欲しくなるよなと少しの同情。老人を尻目に喫煙所に入る。狭い空間に於かれた灰皿。白の丸テーブル。僕は喫煙所の端に立ち、ポケットの中から電子タバコの本体とスティックを取出し、少し震える手でスティックを刺し込みスイッチを入れる。およそ20秒の後、口にタバコを運ぶ。
いつも見ている景色だ。陽の光は道路を挟んだ反対側の建物を照らす。ふと照らされたビルの上を見ると人が立っている。恐らくだけれども僕と同じだ。彼の場合は僕の方を向いてタバコを蒸かしている。しかし、彼には僕の姿は見ているのかどうかは定かではない。スーツ姿でベランダと思しき所でゆったり過ごしている。暖かそうだ。そのビルから下へ視線を向けていく。向かいのタコベルの前を人々が往来する。歩く人、走る人、犬の散歩をしている人、タクシー待ちをしている人、歩きスマホをする人、シルバーカーを押しながら歩く人…。種々雑多、様々な人がこの街には居る。
タバコを換え2本目。
道路は車が行きかう。初心者マークを付けた赤のエクストレイル。その横を初心者マークを付けたノートが颯爽と越していく。トラックが止まる。その後ろにタクシー。すると後ろからループに乗ったスーツを着た人がやって来る。他の車にクラクションを鳴らされている。その音に驚いてしまったが、僕以上にループに乗っていた人の方が驚いたはずだ。いや、そのクラクションを鳴らした周囲の車、関係ない車の方が驚いたに違いない。心臓に悪い。しばらくして、自転車が何台か行きかう。スポーティーな自転車。車に引けを取らないぐらいのスピードで走って行く。その後ろに控えていたのはママチャリ。荷台に段ボールが無造作に入れられるのがここから見ても分かる。ヨタヨタと運転していて、転倒したら危険だろうな…と余計なお世話である。
タバコを換え3本目。
ちょうどタバコを差し替えるタイミングで喫煙所に来訪者。「ああ、いつもの人だ」と僕は思った。このお店の店員さんも時たまバッティングすることが多い。この店員さんはここに置かれた灰皿ではなく、いつも自分で持参したポケット灰皿に灰を入れていく。何でだろうといつも思っていた訳だが、冷静に灰皿を掃除する手間を省くということもあるのだろう。いや、違うな。店員さんの優しさだな、これは。お客さんに灰皿をなるべく綺麗な状態で使って欲しいという配慮なのかもしれない。いきなり「どうしてですか?」とも聞けない。僕は悶々としながら吸い続ける。しかし、彼のタバコは早い。キンギョなんじゃないのか?と勘繰るが、吸い方は様々である。僕がどうこう言えた立場ではないのである。そそくさと吸って彼は喫煙所を後にする。
そして僕も喫煙所を後にする。
曇りのち晴れ
人生という言い方で
人生を要約してしまいたくない
という言い方は誰のものでもいい
(スイッチ・パブリッシング 2019年)P.61
さて古本を見て回ろうと思ったが、どうも気分ではないらしい。今日は本という気分ではない。何だか心が浮ついている。そんな感じだ。ウキウキしている?いや。そういう訳でもない。高揚感?いや。そういうものでもない。とにかく本ではない。外へ出て、ただ感じたい。何を?分からない。ただ感じたい。それだけだった。僕はすぐさま本屋を後にしてコンビニへ向かう。
会社への帰り道。ふと「あれ?」となる。
ただ僕はコンビニでスイーツを買うことしか頭にない。本屋から出た瞬間、それはいつもの神保町だった。冗談でも何でもなく、ただの日常だった。そこにはいつもの変わらない街並みが在り、ビルが在り、人の往来が在る。ヘッドホンから流れる曲が鮮明に聞こえてくる。雑踏は何もない。何も見えない。何も聞こえない。ここに在るのは一体なんだ。という漠然とした不安みたいなものが襲ってくる。
すると段々と嫌悪感みたいなものが心の奥底から沸々とやってきて、「なーんだ」と子供が飽きたら匙を投げるかの如く、スタスタと歩いて行く。結局僕はまた日常に舞い戻って来たのである。しかし、これもこれで人生である筈だ。こういうほんの細やかな時間だけでも、日常の機微を感じられただけでも良しとしようではないか。非日常は日常の中に突然現れるものである。それは身構えて自分の方へ迎え入れるのではなく、向こうから自ずとやって来るのだろう。
日々何となく過ごしてしまいがちだけれども、こういう所にこそ人生の醍醐味みたいなものが在るのだろう。自分の見知らぬ土地へ赴き、非日常を味わう。それもそれで良いだろう。そこでしか経験できないことを得るということは大切な経験である。然しながら、僕はこういう日常に突如として現れる非日常性を大切にしたいと思っている。
確かに今日この日は日常の機微を感じた。
谷川俊太郎の詩が恋しくなる。そんな昼休みであった。
よしなに。