雑感記録(53)
【根本的な問い】
今日は天気が中々優れず、僕の体調も少しばかし優れたものではなかった。僕は元々、小さい頃からあまり身体が強い人間ではなく、小さい頃はよく入退院を繰り返していた。今ではそんな面影もなく自分で言うのも大分変な話だが、立派に育ったと思う。主だった不調もなくここまで来れている。しかし、低気圧の時などはやはりどうも体調が優れない。頭痛持ちは大人になっても治らないのかと途方に暮れてしまう。
そんな訳で、昨日とは打って変わって今日1日はずっと家に籠って本を読んでいた。最近は自分の考えるテーマとして「時間」「労働」というものがあり、マルクスを再度読み直そうかとも思ったのだけれども熊野純彦『マルクス 資本論の論考』を読んでいる。また昨日、『映画の言葉を聞く』という本を購入したのでパラパラとめくっている。また、これも最近購入したのだが柄谷行人の新刊で『力と交換様式』も読んでいる。それから……。
と今現在、読んでいる本を挙げようと思ってみたのだが割と僕はつまみ食い的読書をしているので多分挙げるとキリがない。色んな方向に、まあ僕の諸力に合わせて読書をしているといった方がいいのだろう。なんかここまで書いといて「こいつ、勿体ぶってんな」と思われるのも嫌なので現在、何を読んでるか試しに頑張って挙げてみよう。
・熊野純彦『マルクス 資本論の思考』
・柄谷行人『力と交換様式』
・『映画の言葉を聞く』
・保坂和志『朝露通信』『カンバセイションピース』『人生を感じる時間』
・アリストテレス『ニコマコス倫理学』
・原民喜『原民喜詩集』
・フーコー『狂気・言語・文学』
・ル・クレジオ『物質的恍惚』
・バタイユ『内的体験 無神学大全』
・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』
・鷺沢萠『駆ける少年』『帰れぬ人びと』
・波多野精一『時と永遠』
・吉岡実『死児という絵』『サフラン摘み』
・ハイデガー『ニーチェ』
ざっと挙げるとこんな感じだろう。まあ、自分でこうして書いてみて「うわ、癖強いな…」と思えてしまうのもまた面白い。というより、意外と読めていないんだなと思ったりもする。結局のところ、つまみ食い的読書なのだから、その時々によって読む作品も変化していくから一概に「これ読んでます」というのが実は僕にとって難しい。というよりも、多分しっかり読み通そうと思っているのは今のところ2,3冊ぐらいしかないだろう。まあ、これも読書の愉しみではないかと僕は考えている。
しかしまあ、何というか、自分でも「何でここまで読めるんかな」と自分自身に対して疑問を抱くことが多い。単純に「本を読んで愉しい」というのもあるし、以前の記録でも書いたのだけれども「自身が言葉を介して世界と繋がっていることを認識できて自身の世界が広がることの面白さ」というのもあるのだろうと思う。
ただ、最近では「惰性で読んでいやしないかい」と思うことがしばしばある。大学の延長線上でダラダラとここまで来てしまっている。そんなような感じがしてならないのもまた事実である。
なんという表現があっているか分からないが、癖になっているもの、習慣化してしまったものを修正するのは人間難しいものだと思う。僕にとって読書はそんな感じなのだ。つまり、僕の生活に読書が癒着してしまって、自身で引っぺがすのももう困難な状況になっているということなのだろう。
読書もそうだが、映画や芸術に触れる機会を持つということも同様である。今更僕の生活からそれを引きはがすことはもう困難な状況まで来てしまっている。ある意味で僕は重症なのかもしれない。
仮に、こういった本関連や芸術関連の仕事に携わっていれば嫌でもそういったものに触れ続けなければならない。そうすると恐らくだけれども、こういった癖がついていると楽なのかもしれないが、それなりの大変さがあるだろう。「自分はこう考えているのに、なんでこうするんだよ!」という葛藤が常に生じるはずだ。しかし、僕は全く関係のない仕事をしているから、何と言えばいいのだろうか、余計にこういったものに沼ってしまうのだろうとも思う。
僕はとにかく愉しい生活を送りたいと考えている。何と言うのだろう、即効性のある愉しさではなくて、こうジワジワ来る感じの愉しさ。どんどん分からないことに対して追求していく中で、それが分かりかけた瞬間に手のひらからこぼれてしまうあの感覚が僕は堪らなく好きなのだ。ある意味で僕はマゾヒストなのかもしれない…。
考えること。これを辞めたら僕らは人間であることを放棄しているように思う。
根本的な問い。これを心に秘めておくことは非常に重要であると僕は思っている。ありとあらゆるものに対して、その根本的なところへ向かって考えることを辞めてしまったら、ただ社会の歯車として生きていかなければならなくなる。なぜ僕らは働き、なぜ僕らは金を稼ぎ、そしてなぜ僕らは生きるのか。そういった根本的な問いの上に僕らの生活は成り立っている。
この根本的な問いを考えることは僕にとって愉しいことこの上ない。また繰り返しになるが、それが分からないということもまた愉しみの1つだ。永遠に答えがない問いについて考え続けること程愉しいことこの上ない。
仕事なんかをして、分からないことが出てきたときマニュアルやら上司に聞けばある程度の解答が返ってくる。それはそれで円滑に仕事を進める上では重要であるが、それは根本的な問いではなく場当たり的な問いに過ぎない。つまり、確実な答えがなくても留保付きの答えが与えられるのである。
その問いの根本を考えることこそに仕事の意味があると僕は究極考えているのである。なぜこの手順でやらねばならないのか、なぜこの法律に従うのか、そもそもその法律の整合性は…とか考えればキリがない。ここにこそ醍醐味がある。
ところが、仕事というのはそううまくはいかない。常にスピードを求められ、そういった自身の考えなどは関係なしに進めなければならない。ゆっくりじっくり考えることなど出来ない。即効性が求められ、熟した個人の思考および根本的な問いなどは不要なのだ。そんなこと考えてたら会社の歯車を乱すものとして排除されてしまう。
根本的な問い。これを忘れてはいけない。それが単純であろうとなかろうと常に持ち続ける必要があると僕は考えている。そしてそれを自分自身で考え続けることを諦めないこと。ここにこそ人生の愉しさがあり、人生の面白味が詰まっていると思うのだ。
なぜ、僕は本を読み続けるのだろうか?
なぜ、僕は生きているのだろうか?
なぜ、僕は働くのだろうか?
なぜ、僕はこうしてnoteを書いているのだろうか?
深淵を覗いて見ても、未だ深淵は僕を見向きもしない。
それぐらい僕はちっぽけな存在であるということは確かだ。
雑駁な文章失礼。よしなに。