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雑感記録(158)

【所謂「音MAD」について】


昨日、僕は何だか興奮冷めやらぬといった形で記録を残した。今、冷静になって読み返してみた。ああだこうだと色々と書いている訳なんだけれども、あそこで言いたかったことは単純に「言語、言葉という存在そのものが文学的営みを阻害しているという矛盾」ということである。

つまりは、言葉を使うこと、言葉を使って表現することというのは必ず何かしらの意味を所有してしまうということである。「意味のない言葉」というものはどう頑張ったって書けないということにある。こちらが意味を含蓄しないと息巻いたところで、「これには意味がない」と言ったところで、言語として言葉として現出してしまっている以上、そこにはどうしても意味が発生してしまう。書き手も読み手も想像しえない所に。

逆を返せば、こういう現象があるからこそ批評が成り立つ訳なのだ。つまりは、創作者の想像もしえない所で働く言語作用とでも言えばいいのだろうか?その言葉が一人でに歩き出しそうな瞬間を批評家は捉えてそこに新しい意味を付与していく。と簡単に書いてしまっているが、この作業は相当な思考を持たなければ為せ得ないことなのではないかと僕には思われて仕方がない。昔の文芸批評家は凄かったんだな…と過去に思いを馳せる。いや、タイムリーで読んでた訳じゃないけどね…。

そういえば、今日の朝またまた、じんぶん堂で柄谷行人の回想録を読んでいた。結構好きで実は何回も読み返している。

僕は個人的に柄谷行人の文芸批評が好きである。どこが好きであるかと聞かれると、正直答えにくいところがある。ただ「これだけは確実に言えるな」と思えるのは、どんな文芸批評の場合でも曖昧さを愛してくれている感が物凄く伝わってくるのである。何というか「ここほぼ感覚で書いてるでしょ!」みたいなところが個人的には思える部分があったりして、その人間味を感じられるのは何だか愉しい。

回想録なので勿論、出生から現在に至るまでのキャリアだったりを追っていく訳なのだが、これが結構面白い。何より凄いなと思ったのは昔から現在に至るまでやっていることの構造が変化していないことにある。というよりも、それに気が付いた浅田彰が凄い訳なのだが…。

――「思想はいかに可能か」は、現在同名の初期評論集(インスクリプト発行)に収められています。明晰=三島由紀夫、自立=吉本隆明、成熟=江藤淳と三つの思想のあり方を検討していくという論考ですね。やはり、吉本、三島、江藤は、当時圧倒的な存在感だったんでしょうか。

柄谷 それはそうです。だけど、やっぱり三角形を作るために、構造論的に見てたんじゃないかな。その三つのタイプしかないというように断定しているけど、そんなものわからないよ(笑)。この数日で久しぶりに読み直してみたんだけど、自分の立場はどこにあるのかというと、三つのうちどれかにつくとか、そんなじゃないんですね。三つの他にもう一つの観点がある。

――選考委員の小田切秀雄(文芸評論家)は、柄谷さんの力量を認めつつ、「三氏の立場にたいして原氏(編集部注・柄谷さんの応募時の筆名は「原行人」)がほんとうはどういう関係になるのかが必ずしもはっきりしていない、という点が弱い」と書いていますが、それのどれでもないわけですね。

柄谷 そうです。そうでなかったら、並べて書くようなことはしないと思う。三つとは違う観点を本当は考えていた、と思う。

――柄谷さんはエピローグで「だれも一人でこの三極を所有することは出来ない。それは神のようになることであり、つまりは自己幻影に酔うことである」と書いています。

柄谷 要するに、もう一つの立場について、三人と同じようには論じられない。だから、欄外にある、という感じで終わってるんじゃないですか。しかし、今回、これを読み直してみて、自分に関して大きな発見をした。これは、実は近年に自分がやってることではないか、と。何かというと、交換様式です。交換様式にはABCの三つがあって、もう一つがDなんですよ。そんなこと僕は忘れてたけど、同じ構造を繰り返していたのか、と思う。

――浅田彰さんが帯に寄せた文章でも、「柄谷行人の批評の基本構造が現れている」と書かれていますね。

柄谷 そうなんだよ。自分の論文を読み直した後、浅田彰の言葉を読み直して、驚嘆した(笑)。その通りなんだよね。Dの問題はこのときから始まっている。すっかり忘れていたけど、浅田さんはさすがですよ。

柄谷行人 "初めての論考、読み直して再発見した自分
私の謎 柄谷行人回想録⑥
2023年7月10日 じんぶん堂 powered by 好書好日
(閲覧日:2023年11月28日)
https://book.asahi.com/jinbun/article/14945200

僕は個人的に、柄谷行人の著作が好きということもあるから愉しく見られる。何というか僕はいつも批評の場で、文章でのみしか柄谷行人を知らないのである。だからこそ凄く新鮮であったという印象なのだ。柄谷行人の文章しか知らない読者がもしいらっしゃればぜひ1読してみるといいでしょう。

ちなみに、余談だが、浅田彰の『構造と力』がどうやら文庫化するらしい!なんと!『逃走論』しか文庫化されていなかったのだが!なんと!ついにだ!嬉しい。

初刊からなんと40年!いやはや、驚きである。僕は単行本で大学時代に読んだが、さっぱり分からない。せいぜい「クラインの壺構造」ぐらいしか僕には理解できなかった。つまりは、価値の源泉の移動というか…うーん…久々に読み直そうかな。


とまあ、話が些か脱線してしまった。そう、僕が最近考えていることは「言葉、言語の虚しさ」みたいなことなんだと思う。ラカンは「空のパロール」と言い、他愛のない中身のない会話を指してそう言っていたが、最近はそれすらも疑わしいような気がしてならないのである。「意味のない会話」というのはそもそも存在しなくて、我々が一方的に「これは意味がない」という了解のもとで成り立っている訳で、言語単体で「意味がありません」と表明することは不可能なのではないだろうか。

そんな中で、僕は本当に「意味のない言葉」について考え考えあぐねていた。それで気分転換にYouTubeを見ていた時に、ふと懐かしい動画がオススメに流れてきた。


これを見た時に懐かしいなと思ったと同時に、この如何にもくだらない、数十年前に作成された音MADがもしかしたら「言葉の意味を破壊する」という意味に於いて重要な何かを孕んでいるのではないかと思われたのである。そう、このくだらなさと意味のなさと言うのは紙一重というか…。

この音MADを知らない人達のために説明しておくと、音MADというのは昔と言っても10数年前にニコニコ動画で一世風靡した動画群の1つである。誰かの声のみを利用して、曲に乗せる。単純な話であり、作品である。例えば松岡修造の音MADなんかは恐らく1番有名なんじゃないのだろうか。松岡修造の話す言葉だけでちびまる子ちゃんの曲を作成したり、クラシックの名曲『天国と地獄』を松岡修造の声だけで表現するなど…様々なシリーズがある訳なのだが、これが非常に面白い。

これを聞いて恐らく不快になる人もいれば、何となくだけれども耳に残ってしまい頭から離れないという人もいるだろう。少なくとも僕は後者である。というよりも、高校の時に友人に教えてもらって聞いたのが始まりで、あれから10数年経っても覚えているということはそれなりにインパクトがあったのだろう。ちなみに僕は1番最初に載せた「もう受かる気しかしないzone」が1番好きな音MADである。文学で言えばもう名著中の名著みたいな感じだ。

はてさて、いきなりこんな動画を載せておいて一体何を語ろうかってことなんです。僕がこれから書くことはまああまり真に受けないで欲しいのだが、実はこれら音MADが「言葉の意味を瓦解する」という方法として現代に於ける詩のような形式を変える以外の手段であるように僕には思われて仕方がなかった。これこそ正しく「意味のない言葉」「意味を持ちえない言語」のその可能性の一端なのではないだろうかと思われる。

この音MADたちが優れている点は、既にある言語、つまりは言葉を載せる歌に被せてその対象の言葉を無理矢理に載せるのである。例えば松岡修造でちびまる子ちゃんを表現する場合、本来的な『踊るポンポコリン』の歌詞を踏襲するとは言え、結局松岡修造の話す言葉を編集して、その音に言葉をはめ込んでいくのである。ここが実はミソなんじゃないかと僕は考えている。つまり言葉よりも音が先立つという状況。加えて、その音に合わせる為に発せられる言葉が否応なく加工される。加工される言葉は本来的な言葉の形をしていないのである。

ん、ちょっと待てよ。とすると『万葉集』ってもしや凄いんじゃないか?あれって"万葉仮名"とか言って便宜的に音の拠り所を作ってあげていて、その文字自体には特段の意味も存在しない訳だ。音を発声するという意味に於いては言語は重要であるが、その示される事柄や物事については畢竟するに、言語や言葉なんて不要なんじゃないのか?むしろ、それが邪魔をして伝えたいことの何割かは取りこぼしてしまっているかもしれない。そう考えると、"音"の役割というのは重要なのかなと考えさせられるのである。

これで言語の持つ意味については消失が出来る。ところが、結局のところ言葉を音に変換して、それを言葉として対応させるのだから本末転倒な訳ではないかとも思う。うーむ…難しいところではある。しかし、確実に言えるのは「この曲はこの歌詞である」という認識を別の言葉で上塗りし、しかも何を言っているか分からぬ言葉で再構成するのだから、従前の言葉を無力化するという点に於いては意味を壊していると言っても過言ではない。

何だか非常にまどろっこしいことを書き連ねてしまっている訳だが、要するにここで言いたかったのは音MADの場合には、言葉や言語よりも音が先行しているので、言葉そのものを音と認識するため意味のない言語と成りうる。……のではないか?って考えている最中である。しかし、少なくともこの如何にもくだらない、音MADがそういった意味で示唆に富んでいるということは間違いないだろう。


このように考えてみると、やはり言語と音は切っても切り離せない関係であることは言うまでもない。だからという訳では決してないのだが、現在の詩人、それこそ吉増剛造や保坂和志などが自身の作品を朗読することの意味が(!?)何となくだけれども分かるような気がする。

音が先にあって、そこに言葉が付いてくるということ。つまりは、言語が先ではなくて音が先にあって、言葉は副次的なものに過ぎないということなのではないだろうか。音声中心主義?デリダみたいなこと言っちゃう?というのも良くないだろうと思い、実は今日の昼休みにデリダの『根源の彼方に グラマトロジーについて』を購入した。デリダの中でもわりと難解な作品らしいので頑張っていこうと思う。

とにもかくにも、今日書きたかったことは至極当たり前のことだけれども、実は忘れていることである。つまり「音は言語に先立つ」ということである。音MADでそれに改めて気づかされるとは、いやはや、ニコ動も捨てたものではない。

本だけが今の世の中全てじゃないんだ。「書を捨てよ」とまでは言わないし、「町へ出よう」とも言わないけれども、本だけに凝り固まっていては気づけないこともある。

よしなに。


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