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雑感記録(277)

【詩に可能性を求めて】


先日から、僕の頭の中は混乱している。

キッカケはやはり先日の記録で何遍も執拗に書いている『現代日本の批評』である。これだけ連日で書くぐらい、僕は物凄く衝撃を受けた。何が衝撃だったかというのは簡単な話で、一言で言ってしまえば「信仰が崩れた」ということである。信仰と僕も中々なお馬鹿さんな訳だが、だが信頼していたものが正当に尚且つ、物凄く納得できる方法で批評されると自分が馬鹿らしくなる。しかも、それが信頼していたものよりも凄く面白い。

この本の試みは、実際にこの本の最初にしっかりと書かれている訳だが、ディテールは『近代日本の批評』と同じである。『近代日本の批評』は全部で3冊。昭和篇上下、そして明治・大正篇である。僕は単行本で所有している訳で、読み返そうと思ったがこれも生憎実家に置き去りである。著者は柄谷行人、蓮實重彦、浅田彰、三浦雅士である。

これも前日の記録で書いたが、僕は大学で大いに蓮實―柄谷ラインの影響を受けてしまっている。別にそれが悪いことだとは決して思わないが、それに毒されているというのは社会人になって様々な本にあたる中で思いつつも、何となく胡麻化しながらここまで来てしまった感はある。渡部直己の授業は面白かったが、蓮實―柄谷ラインの人だった訳だから仕方がないと言えば仕方がない。

そこから抜け出そうと頑張って、リハビリテーションを続けていた訳だけれども、やはり僕の読書体験は大学から始まっているので、戻ると言ってもやはり蓮實―柄谷ラインに戻るしかないのである。そして結局、それを受け入れることに躍起になっていく。勿論、僕は柄谷行人の文章は好きだ。内容は置いておくとしても。だが、思想的な部分は面白いと思うが、よくよく読んでみると『トランス・クリティーク』―『世界史の構造』―『帝国の構造』―『力と交換様式』は殆ど同じ話しかしていない。

やはり、自分が信頼しているものやある種の拠り所にしていた概念やそういったものが喝破されると辛い。確かに間違えていることや、その思想の古さに僕も疑義を抱いていたが、刷り込まれたものは中々ぬぐえない。言い訳にしか過ぎないが、しかし、こういう弱い部分もあるのが人間である。

そんな中で、東浩紀の本に出会い読んだ時、僕は何だか不思議な感覚になった。何というか…「ああ、やっと先に進める」という感覚になった。そう言うこともあって、僕は面白くこの本を読ませてもらった。

やっと、僕は1歩進めた気がする。


それで、僕は『近代日本の批評』や『現代日本の批評』を読んで1つ思ったことは「詩」についての記述が殆どないということである。どれもメインに置かれるのは小説、批評、哲学。『現代日本の批評』ではとりわけ「メディア」との関係で語られる。そういえば大澤聡による『批評メディア論』は大学の時に読んだが、物凄く面白かったことを記憶している。

いずれにしろ、「詩」が中心に据えて語られることはほぼない。せいぜい吉本隆明の名前や『マス・イメージ論』が議題の俎上に上がるだけだ。仔細にということは一切ない訳だ。

しかし、この状況に僕は疑義を抱いている。こういった今を席巻している東浩紀や佐々木敦、他は福田亮大とか…まあ色々といる訳だが、所謂「批評」を担っている人達は「小説」は扱えども「詩」については一向に取り上げていない。何なら彼らは音楽や政治やサブカルチャーと言われるものなど多岐に渡り展開しているが、「詩」に関してはどうも微妙なようだ。あくまで僕の想像の話でしかないのだが。

僕は個人的に今の小説そのものが行き詰っている印象を受ける。読まなくても何となくだけれどもそういう傾向にあるのかなというのは伝わってくる。資本主義的な所に最終的に帰着して、彼らがいくら「言葉」「言葉」と言っても、どこか形骸化してしまった「言葉」でしかなくなってしまうような印象がある。確か東浩紀と加藤典洋との対談でこんな話をしていた。

東 …ひとことで言えば、1970年代までは日本では文学と政治は社会のなかでもかろうじて結びついていて、その文学と政治の関係を語る言葉として批評があった。
  ところが、1970年代以降は、文学と政治は端的に関係がなくなる。文学者の側でその変化を象徴するひとは、ぼくは村上春樹さんだと思います。そして柄谷行人。

東浩紀×加藤典洋「文学と政治のあいだで」『新対話篇』
(ゲンロン 2020年)P.135,136

確かに、文学を通して政治を語れていた訳だが、今ではそれが語れるかと言われれば難しいだろう。これは大抵のどの批評家もプロレタリア文学をわりと評価していない。僕はそれでも、実際に行こなわれた論争などが陳腐であったとしても、前提として政治を語るという部分で文学がコミットしているという所に於いては評価が出来るのではないかと考えている。

だけれども、「詩」がその俎上に上がることは殆どない。強いて言えば「プロレタリア詩」として一部の作家、例えば、小熊秀雄とかそれこそ中野重治とか、そこら辺りの一部の作家がそういう印象が強い訳だが、しかし、それらを語るのは批評家では無くて、アカデミズムが担うこととなっている。そんな印象を僕は1人勝手に思っている。

現代の「詩」について語れる人間はどれくらいいるのだろうか。とりわけ、それを批評の対象として扱っている人は居るのだろうか。僕は『現代日本の批評』を読んでそれをどことなく感じたのである。僕は「詩」と言うものには可能性を感じている。これは僕が東京に出てきてからの傾向とも相まった所があるのだろうが、やはり「詩」は着目すべき場所なのではないか。


だが…。「詩」を語るということは僕は難しいと思う。

僕は小説が開かれた作品だとするならば、詩は閉ざされた空間だと思っている。小説はどんどん物を提示していく。有体に言ってしまえば、言葉で「世界」を作る営みである。しかし、「詩」と言うものはどうもそういうものとは違うらしい。「世界」を作るのではなくて、「世界」を掘る(dig)作業であると思っている。小説が上昇的な世界で、詩は下降的な世界であるのではないか。僕はそう思っている。

そうすると、前提としてそのベースになるのが自己存在である訳だ。つまり、自分という存在が居なければ「詩」は存在足り得ない。自分という「世界」を言葉で掘っていく。これが僕は「詩」だと思う。小説は僕らの眼を通して言葉で「世界」の構築に努める。そう考えると、「詩」というのはある種その書き手の人間性が1番出る分野なのかもしれないと考えてみたりする。だから批評しようにも批評の仕様がないのではないか。

そういえば、高橋源一郎と保坂和志だったか。「小説のことは小説家にしかわからねえ」論争的なのがあった訳だが、小説も詩と同様にそれを書く人間にしか分からない言語感覚というものがある。だが、小説はまだ捉えようがある。なぜならば言葉で作り上げる「世界」というのは、結局僕らが見ている世界と似てしまうのである。全てが全てを分からなくても、それなりのことは考えられる。だが、「詩」はどうなるだろうか。

「詩」はどちらかと言うと世界に似るより、書き手に似る。書き手依存の作品なのだと思う。そうすると外部の人間が、それを論じることが途端に難しくなるのである。勿論、世界のことを言葉で語る訳だが、その言葉の位相が僕には小説の言葉とはどこか違う様なそんな印象を受けるのである。

さらに、変なこと言うついでに言うならば、「詩的言語」という言葉を「詩」というものに対して使う。それをポエジーと言い換えてもいい。だが僕はここ数日それは違うのではないかと考えている。「詩的言語」ではなくて「私的言語」である訳で、詩に於ける言語などは存在せず、あくまでそれを書く私が所有する言語で書かれる作品である。

僕は昨日、馬鹿げたことを書いた。

正しく、「詩」であればそれは許される。小説はあくまで「世界」の構築というものがある種の目的と化しているような気がしなくもない。そう考えると、その「世界」には少なからずとも綻びが生じる訳で、それがあるからこそ批評家たちはそこをついてあれやこれやと様々に論じることが出来るのではないか。だが、「詩」は「私的言語」である。それは批評家が「こういう風に読める」と言ったところで、それはさして何ら影響を与えることすらなく、通り過ぎ去ってしまうのであると僕は思った。


僕はかつて、谷川俊太郎の詩について色々と書いてみた訳だが、実際今読み返して見ると、どう読んでもその表層部分でしか語れていないということが露呈している。その本質、まあ、そもそも本質があるのかどうかも危ぶまれる所ではあるのだが、結局僕は谷川俊太郎の「ここが良いんだよ」というのをどこかシステマティックに語ろうとしている節がある。しかし、本当にそれだけで事足りるのであろうか。

僕は大学の時に、先にも書いたが蓮實—柄谷ラインを主軸に文学を論じるということにどっぷり浸かっていた訳で、何かを語る時というのはどうも「自分がどう感じたか」よりも「そこに書いてあること」というものが先行してしまう。つまりは、作者という存在を蔑ろにしていたような気がする。というよりも、事実そうである。そこに書かれたことから判断する、それのみ。テクスト論に侵されてしまったような気がしなくもない。

しかし、社会人になって様々な作品、とりわけ、僕にとっては保坂和志の影響が1番大きい訳だが、やはり言葉で何かそこに書かれていること以上に、言葉に出来ないその「何か」という感触を掴むことというのが大事なのではないかと思った。加えて、先の『現代日本の批評』を読むとやはりその時の社会情勢や細々とした些細な部分でのカルチャーについても知らなければならないということをヒシヒシと感じた訳である。

勿論、その当時の社会背景から全てを語ることは出来ないだろう。だけれども、それが影響を与えるということはある訳だ。僕だって東日本大震災が無ければ物の見方なんて大きく変わっていたに違いない。そもそも、ゴジラの見方だって全然異なったものになっていたかもしれない。

小説はまだ良い。そういった社会背景を捉えることは容易だ。そもそも言葉で「世界」を構築する訳だが、ある程度は僕等の生活がベースであって捉えやすい。しかも、普段から慣れている語りで書かれるのであればそういったことを探り当てるのは容易いことだろう。彼らからすれば。ただ、何度も繰り返すようだがそれが「詩」に適応出来るかは難しいのではないか。個人性という部分がその大半を占めている訳であって、それを外部のみで語るのは容易な事ではないだろう。

そういう訳もあって、僕は非常に短絡的ではあるが、現代に於いては小説よりも「詩」にまだ可能性が残されているのではないかと考えているのである。


さて、連日に渡り、何だか血迷った記録ばかり残している僕だが、ほんの少しだけ見えてきた気がする。これからも日々果敢に読書に挑んで行きたい。これで若干の方向性というか、何となくだけれども道程が見えてきたような気がしなくもない。僕はこれからも僕なりの読書で日々自分をアップデートして行かねばなるまい。

その為には果敢に現代の作品にもコミットして行かねばなるまい。近代文学というある種の呪縛から逃れる時期がいよいよ来たのかもしれない。

そんなことを思う今日この頃です。

馬鹿げた投稿もこれで終いにしようじゃないか。

手に負えない夕方

 こういう手に負えない夕方ってのがある
 曇っているが雨は降っていない
 人の足音ばかりがくぐもっているくせによく聞こえる
 風はない

 こういう夕方が何年か前にもそのまた何年か前にも
 そのもっと前にも多分子どものころにもあったのはよく分かってるんだが
 (旅先やなんかけっこうさまざまな場所で)
 そのときの自分と今の自分の区別がつかない

 長い間にぼくも少しは経験を積んでいる筈なのに
 それがなんの役にも立ってないように感ずる

 今までぼくがやってきたことも
 これからぼくがやっていきたいことも
 どこかへうっかり置き忘れてきてしまったみたいで
 ぼくには今この夕方しかない
 だんだん暗くなってゆく木立と時折りの人の足音

 決していい気持ちじゃないが
 一方でぼくはこうも思っている
 これこそ世界のありのままの姿なのではあるまいかって
 もとのもとはずっとこうなんじゃないかって
 大昔から
 そしてこれからも 

谷川俊太郎「手に負えない夕方」
『世間知ラズ』(思潮社 1993年)
P.28,29

よしなに。




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