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ファノンの皮膚、ヘーゲルの仮面:②問われ続けるファノン編

第1幕は以下のリンクを参照ください。


ヘーゲル弁証法の3つの重要な概念

さて、この本稿は、2つの自己意識の初めの出会いという第一幕が終わったところで、社会生活の理解を広げることに貢献する第二幕に移ろうと思う。ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法には、好意的であれ批判的であれ、社会生活をより大きなスケールで考察するために、その解釈と誤った解釈を繰り返す読者を惹きつける魅惑的な引力がある。
まず、ヘーゲルが導入したこの弁証法における重要な概念のひとつは、自己意識の進展、あるいは単に自己意識の発展をいかに予期するかということである。ヘーゲルは確かに、自己意識は別の自己意識、つまり他者なしには決して発展しないということを表現している。言い換えれば、主体は他者なしに、つまりは客観化なしには主体性を獲得することはできない。 (マルクーゼが、この歴史的展開の本質に新たな視点を与えたという点を、ヘーゲルの最大の発見と位置付けているのも無理はない。)重要なのは、この自己変革は運動のサイクルの中で起こるということである。つまり、主体は常に安定した状態を保つことはできず、問い続けられなければならないのである。
第二に、欲望としての自己意識は、自らの生命を危険にさらすことによって、その満足や承認を達成しようとする。ヘーゲルは、この相互承認を人間相互作用の基本的な約束事としながらも、この生死をかけた承認闘争は、理性和解に至るまで、主人と奴隷の非対称的で不平等な関係としての誤認に終わることはあり得ないと警告している。これは心理学的、政治的、歴史的などさまざまな側面から理解することができる。
第三に、ヘーゲルは、主体も客体も、あるいは自己意識と客体性の形態や世界も変容させることができるのは、真の自己としての活動、あるいは活動の最初のものとしての労働であると明言している。労働実践を通したこの創造的活動の力は、生命の存在の源にある。この活動の結果、従属的存在は、独立的存在との立場を逆転させることによって、自由と認識を獲得することができる。

ボーヴォワールとファノン、そしてヘーゲル

ヘーゲルがここで提示したものは、具体的な歴史的出来事でも社会的出来事でもなく、カテゴリーに過ぎない。たとえば、自己意識の発達過程は、主体の同一化だけでなく、社会集団間や集団内の関係、さらには人間と神との関係にも適用できる。(ラウシュはヘーゲルとニーチェの比較する際に、この自己意識の発展過程を彼らに共通する19世紀的な強迫観念と形容し、それは自らの創造物がその過程で逆にその創造主を支配し、また形作る力を持っているという考えであると展開した。)また、ルイス・ゴードンが指摘するようにボーヴォワールとファノンのそれぞれの概念の相互関係を分析することによって、その認識の弁証法はジェンダーと人種の歴史的な現れについて明確な理解を提供すると言えるだろう。
(ベアタ・スタワルスカが強く非難するのも無理もなく、ボーヴォワールとファノンの両者が、コジェーヴのねじれた、そして空想的で創造的なヘーゲル誤/読解に強い影響を受け、その誤/読解に大きく依存していることは疑いようのない事実である。さらに、本稿ではファノンの解決策を後で詳しく見ていくが、両者とも相互承認の弁証法に入るための活動としての労働を、「復讐に満ちた報復」に置き換えることによって、その主体性を再構築する、という必然性に行き着くのである。)
いうまでもなく、マルクスはヘーゲル的な弁証法を資本主義社会の分析に適用し、われわれがどのような社会形態の生活を営んでいるのかをより深く理解させ、歴史的な自己解放を達成するための造形活動を通じて、従属的な労働者の意識を覚醒させることを目的としている。さらに、弁証法における奴隷のモデルは、その政治的可能性ゆえに、反人種主義的文脈における開放性の象徴であり、政治的アイデンティティのポピュラーな姿とみなすことができる。 (レイ・テラダ、2023年。)ここまで見てきたように、弁証法は社会生活の理解に多大な影響を及ぼしているように思える。

破棄/保存される対象としてのヘーゲルの弁証法

ただし現代の社会生活に目を向けると、ヘーゲルが弁証法で述べていることが、その理解において役割を果たしていないように見えるのは、もちろん明白な事実である。なぜなら、形成的な活動を通じて主人と奴隷の立場が逆転することは、政治的、経済的、社会的に決して起こらないからである。(例えば、アウシュビッツの正門に刻まれた碑文を思い出してほしい。) しかし、だからといって弁証法の言説を廃棄してよいということにはならない。ヘーゲルの弁証法に対する(批判的読解ではなく)批評は、現代の社会生活に対するより豊かな理解をもたらすからである。ヘーゲルの弁証法は、あらゆる批判が目標とする理論的な枠組みを提供することで、理解を促進するフレームワークとして依然として機能している。たとえば、ファノンは、植民地化する者/植民地化される者の弁証法とヘーゲルの弁証法との根本的な違いを強調することによって、弁証法の限界を示している。

私は、ここでの主人がヘーゲルの言う主人とは根本的に異なることを示したつもりである。ヘーゲルには互恵性があるが、ここでは主人は奴隷の意識を笑っている。主人が奴隷に求めるのは、承認ではなく労働である。
同じように、ここでの奴隷は、対象物の中に自分を見失い、労働の中に解放の源泉を見出す奴隷とは、決して同一視できない。

Frantz Fanon, Black Skin, White Masks, p. 172n. 拙訳。

ファノンの言葉を引用しながら、グレン・クルタードは、植民者の侵略的なまなざしのもとでの植民地的認識の経験が、いかに閉塞感につながるか、そして植民地化された個人の一般的な反応は、「逃亡」や「逃避」の傾向であり、自分のアイデンティティから距離を置きたいという願望を表現している。 (クルタード、2014年。)そこには生死を賭けた闘いも、弁証法的対立の解決もなく、ただ絶え間ない「承認拒否の繰り返し」があるだけである。(ニコラス・ジャーマナ、2017年。) その意味で、アト・セキィ=オトゥも示しているように、ヘーゲルの相互承認に基づく社会存在の弁証法は、植民地的文脈の独自性を把握できていないことに留意すべきである。(セキィ=オトゥ、1996年。)さらに、奴隷の労働には自由への道がない。なぜなら、奴隷は対象の中で自らを失ってしまうからである。(この点、アト・セキィ=オトゥは手厳しい。「倒錯した 」生産関係によって、労働を通じて人間性を実現し解放する可能性が消滅したと指摘し、それを 「変形した弁証法 」と呼んでいる。) 先ほどの『黒い皮膚・白い仮面』からの引用は、オルランド・パターソンの以下の主張と本質的に共鳴する。

奴隷制の本質には、奴隷が労働者であることを要求するものは何もない。労働者としての労働者は、奴隷としての奴隷とは本質的に何の関係もない。

Orland Patterson, Slavery and Social Death, p. 99. 拙訳。

ファノンは(そして同様にパターソンは)、理性の到来というヘーゲルの解決策を傍観して熟す(例えば、ヘーゲルは『歴史哲学講義』で「人間の本質は自由なのだから、奴隷制はそれ自体不正義である。それゆえ、奴隷制の漸進的な廃止は、奴隷制を突然廃止するよりも賢明かつ公平である。」と言っている。)のを待つのではなく、彼らに自らの人間性を実現させるための代替的な活動を模索する。というのも彼らは、道徳的・文化的な進展の促進をもはや意味しない変形された労働を通じた創造力に、希望を託すことさえできないからだ。そしてファノンは、植民地支配に対する暴力を通じて、自由のために命を賭ける政治的プロセスの解決にたどり着く。

問われ続けられるべきファノンの選択

とはいえ、暴力による政治闘争がヘーゲルの弁証法を克服する最善の選択肢であったのかどうか、ファノンは問われ続けなければならない。もちろん、それが植民地主義の構造的変革を志向する限りにおいて、文化的自己肯定活動を通じて植民者の支配に立ち向かうことの重要性に疑いの余地はない。したがって、植民地主義の構造的変革を達成するためのさまざまな選択肢の中で、暴力が本当に最善だったのか、それとも他にもっと良い方法があったのか、ファノンは改めて問われなければならない。
例えば、暴力によって結ばれた社会的紐帯は、被植民者の間に新しい形の社会意識を生み出すかもしれないが、被植民者の間に新しい形の社会的断絶が生じる可能性や、被植民者の中に新しい主従関係が生じる可能性も残っている。(サバルタンは決して、決して語ることができない!)
さらに、ファノン自身が警告しているように、被植民者の尊厳と強さを強化することによって彼らの熱狂的な団結を導く文化的実践としての暴力は、「ルサンチマンに侵されたノスタルジア」の鎮静剤へと迅速かつ容易に変質しうる。(クルタード、2014年。)
最後にジャーマナは、ラッセル・バーマンとスティーブ・ビコの議論を手がかりに、非暴力的な対立や「純粋な」認識の可能性を探る。サルトルの「明白な暴力礼賛」に対するバーマンの批判を参照しつつ、彼が(ファノンと同様に)「純粋」承認に至る解決策の可能性を否定しているのは、コジェーヴによる影響力のある主人と奴隷の弁証法の読解のためであるとしながらも、ビノの議論を手がかりにジャーマナは、非暴力的な対決、あるいは「純粋」認識の可能性を示している。彼は、「純粋な認識には闘争と対決さえ必要」であるが、必ずしも暴力的な方法ではないことを示すことで、植民地化する/植民地化された側の現在の「意識の形態」を克服し、新しい「より成熟した意識の形態」に向かう非暴力的な対決の可能性を示している。

ヘーゲルの弁証法とその閉幕

以上の本稿の後半部が示したように、ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法は、社会生活のよりよい理解を促進する議論を喚起する理論的枠組みを提供する。ジャーマナは、「ヘーゲルの思想は、植民地時代とポストコロニアル的文脈の独創性の中で『発展・変容・修正』されてきた」と説得力を持って論じている。(ジャーマナ、2017年。) 彼の弁証法が発展し、変容し、修正されるためには、注意深く読まれ、徹底的に批判され、繰り返し問われなければならない。本稿の最後に、私は次の2つの引用を閉幕の言葉に代えたい。

おぉ、私の身体よ、私を常に問いかける人間にしておくれ!

Frantz Fanon, Black Skin, White Masks, p. 181. 拙訳。強調は引用者。

人間は生まれながらにして自由であるが、いたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っている者も、それでも他人よりもずっとひどい奴隷であることに変わりはない。どうしてこのような変化が生じたのか。私にはわからない。何がこの変化を正当化しうるのか?私はその問いに答えられると思う

Jean-Jacques Rousseau, On the Social Contract, p. 12. 拙訳。強調は引用者。


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