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黒田研二
2022年8月31日 05:59
第5章 運命の夏(19)3(承前)「砂煙を思いきりまき上げやがって。あのくそ爺いには、ホントむかつくな」 釣り客の声が耳に届いた。「あれってベンツだろ? まったく、いいご身分だぜ」「いいよなあ、金持ちは」 櫻澤の話であることは間違いない。彼は、今日もどこかへ外出していたのだろうか。一体、どこへ? 頭の中を、様々な思いが駆け巡る。 結局、釣り客の列は、鉄門の手前までびっしりと隙間なく続
2022年8月30日 07:07
第5章 運命の夏(18)3(承前) 計画どおり、スポーツ店に入る。小さい店だったので、気に入った水着はまるでなかった。置いてある商品は、ほとんどがレジャー用の派手なものばかりだ。長年競泳用を身につけてきた私は、こういったタイプの水着をどうしても気恥ずかしく感じてしまう。時間もあまりなかったので、適当なところで妥協して、結局平凡なストライプ柄の競泳用水着を購入した。「今日は美神湖で、水泳の大会
2022年8月29日 07:01
第5章 運命の夏(17)3(承前) わかった。 笑って荒瀬に手を振り返したものの、私の心は巨大な不安に包まれていく。 鬼の形相。憎悪に満ちた禍々しい視線。荒瀬と同じ表情を浮かべたもう一人の人物は、亮太だった。亮太に匹敵する激しい憎悪を、荒瀬も抱いているというのだろうか。 私はどうしても、櫻澤に会わなければならなかった。荒瀬と亜弥の奇妙な態度が、櫻澤に対する興味を異常に駆り立てていく。
2022年8月28日 05:30
第5章 運命の夏(16)3(承前)「気性の激しいお爺さんだってことはわかってます。昨日、店の前で顔を合わせた──豊田さんでしたっけ? あの人は、骨折までしたんでしょ?」「ああ。あれは櫻澤のせいというかなんというか……」 荒瀬は含み笑いを見せた。「俺が風邪をひいちまったもんだから、ピンチヒッターで豊田さんが配達に出かけたときの話なんだ。『今日は都合が悪くなったから、また明日配達に来てくれ』
2022年8月27日 06:48
第5章 運命の夏(15)3(承前) 亜弥の突然の変化に戸惑った私は、助けを求めて荒瀬を見上げた。だが驚いたことに、荒瀬の様子までもがおかしい。なにかにとり憑かれたような表情で、じっと亜弥の顔を見つめている。「ごめん。私、なんか悪いこと……」「なんでもない。あんたは気にしなくていいよ」 荒瀬は激しくかぶりを振った。その気迫に押され、私はそれ以上なにもいえなくなってしまった。「……あたし、
2022年8月26日 07:12
第5章 運命の夏(14)3(承前)「あいつ、ものすごいスケコマシだっていうじゃない」「そうですよ」 あっけらかんとした答えが返ってくる。「べつに結婚を考えているわけじゃないんだから、必ずしも一対一の関係にこだわる必要なんてないと思うんです。あたしたちが荒瀬さんに活力を与えて、それで《ユーラシアン》がビッグになってくれたなら、それに勝る喜びはないでしょ?」「そのうち、あっさり捨てられちゃ
2022年8月25日 08:04
第5章 運命の夏(13)3 翌朝の私の目覚めは、あまりいいものではなかった。 ひどく恐ろしい夢を見たような気がする。しかしその内容は、いくら考えても思い出すことができなかった。 顔を洗って気分をすっきりさせようとしたが、心を覆う混沌とした霧はなかなか晴れてくれそうにない。 どこか遠くへ行こう。 私はそう考えた。外出すれば、少しは気が紛れるかもしれない。 はっきりとした目的地は決めずに
2022年8月24日 09:07
第5章 運命の夏(12)2(承前)「おい。まだ、こんなところにいたのか。早く行かないとどやされるぞ」 店から出てきた長身の男が、荒瀬を怒鳴った。荒瀬と同じ作業服を着ている。彼も、ここの従業員なのだろう。「あれ? 誰だよ、この子?」 私の顔を見るなり、長身の男は眉間にしわを寄せ、「まったく、おまえって奴は」 いきなり荒瀬の頭をぽかりと殴った。「おまえの女癖の悪さには、ほとほと呆れるよ
2022年8月23日 09:16
第5章 運命の夏(11)2(承前)「これから、櫻沢邸へ配達に出かけるんですか?」「ああ。毎週土曜日の午後七時に来い。一分でも遅れるな、といわれてるんだ。あの爺さん、やたらと時間にうるさくてさ。相当な変わり者だよ。毎日のスケジュールを分刻みで立てて、その予定が少しでも狂ったらカンカンなんだ。そんなわけで、急がなくちゃならない」 荒瀬は身体の前に段ボール箱を積み上げると、頼りない足取りで店の外
2022年8月22日 08:58
第5章 運命の夏(10)2(承前) さて、これからどうしよう? 櫻澤邸へ押しかけることも考えたが、行き当たりばったりで動いたところで、追い返されるのは目に見えている。 山を下り、美神駅へ立ち寄ることにした。馬鹿でかい外車の三台隣にバイクを停め、時刻表を確認する。ここも大勢の人であふれかえっていた。 最終電車の発車時刻までには、まだかなりの余裕があった。これなら亮太が、うっかりして家に戻れ
2022年8月21日 06:14
第5章 運命の夏(9)2(承前) 時速八十キロ以上を保ちながら、国道を北上する。三十分ほどで、大学前を通過した。スピードを緩めることなく、さらに北へと向かう。 一時間近く走り続けた頃だろうか、不意に亮太が声をかけてきた。「先輩、もうすぐ美神町ですよね?」「うん、そうだけど……」 私は言葉を濁す。亮太がなぜ北へ走ろうと答えたのか、もっと早くに気がつくべきだった。「うちの別荘に寄ってくれ
2022年8月20日 08:03
第5章 運命の夏(8)2(承前)「あいつさえいなければ、俺はこの苦しみから解放されるのに……。あいつさえいなければ、昔みたいに泳げるようになるのに……」 そう口にする表情は、ひどく険悪なものに変わっていた。まるで、理性を失った邪鬼のようだ。「櫻澤が憎い……」「亮太、大丈夫?」 声をかけると、憑きものでも落ちたように、彼の表情はもとに戻った。「亮太、もしかしてなにかあったの? またいや
2022年8月19日 08:19
第5章 運命の夏(7)2(承前)「あと二週間だね」 練習のあと、私は亮太と二人きりでハンバーガーショップへ立ち寄った。亮太はうつむいたまま、黙ってコーラを飲み続けている。「……ごめんなさい。先輩を助けられませんでした」 長い沈黙のあとで、ようやく彼は口を開いた。「なんのこと?」「スタート直前に、幹成が囁いたんです。ここは湖だ。四百メートル先で、椎名先輩が溺れている。そう思って泳いでみ
2022年8月18日 08:36
第5章 運命の夏(6)2(承前)「無理だよ」 亮太は立ち上がると、肩を小さく上下に動かした。「おまえには勝てないって」 見ていて歯がゆくなるような、情けない笑みを浮かべる。「そんなの、やってみなくちゃわからないだろう?」「やらなくたってわかるさ。五十メートルも泳がないうちに、俺はこむらがえりを起こしてリタイア。たぶん、そんなところだろうな」「俺と勝負する気はないのか?」「悪いけど