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自由形世代(フリースタイル・ジェネレーション)75

第5章 運命の夏(12)

2(承前)

「おい。まだ、こんなところにいたのか。早く行かないとどやされるぞ」
 店から出てきた長身の男が、荒瀬を怒鳴った。荒瀬と同じ作業服を着ている。彼も、ここの従業員なのだろう。
「あれ? 誰だよ、この子?」
 私の顔を見るなり、長身の男は眉間にしわを寄せ、
「まったく、おまえって奴は」
 いきなり荒瀬の頭をぽかりと殴った。
「おまえの女癖の悪さには、ほとほと呆れるよ。この前、若い彼女を作ったばかりだっていうのに、早くも別の女に浮気か?」
 荒瀬を怒鳴りつけると、今度は私に顔を向ける。
「お姉ちゃん、気をつけたほうがいいよ。こいつってば、ものすごいスケコマシだからさ」
「豊田さん、誤解ですって」
 殴られた頭を押さえながら、荒瀬はいった。
「その子は俺のファンで……」
「そうです。私、《ヨーロピアン》が大好きで──」
「言い訳はあとあと。おい、早く櫻澤のところへ行ってこいよ。ぐずぐずしてると、ホントに間に合わなくなるぞ。いつかの俺みたいに、櫻澤に骨をへし折られたらどうする?」
 骨を? そこまで櫻澤は容赦がないのか?
「ほら、急げ、急げ」
 先輩従業員に尻を叩かれながら、荒瀬は運転席に回ると、
「またそのうち会おうぜ」
 私にそう告げて、トラックに乗り込んだ。
「バンド、頑張ってください。応援していますから」
 心にもないことをいうと、
「ああ、そのことだけどさ」
 窓から顔を出し、荒瀬は笑った。
「俺のやってるバンド、《ヨーロピアン》じゃなくて、《ユーラシアン》だから」
「あ……」
「どんな理由で櫻澤のことを調べているかは知らないけどさ、あいつにはあんまり関わらないほうがいいと思うぜ」 
 最後に右手を上げると、彼は去年の冬と同じように砂埃をまき散らしながら、私の前から走り去っていった。
 カンカン、と踏切の警報機がけたたましく鳴り始める。遠方に目をやると、二両しかない列車が、のろのろと走ってくる姿が見えた。
「お姉ちゃん、悪いことはいわない。あいつだけはやめといたほうがいいよ」
 荒瀬の先輩従業員に、肩を叩かれる。
「来月で二十五歳になるっていうのに、いまだに『俺はミュージシャンになるんだ』って、あり得ない夢ばかり語ってるんだからさ。あいつと一緒にいたって、幸せはつかめない」
「はあ……」
「仕事はそれなりにできる奴だから、正社員になれと何年も前から持ちかけてるんだけどなあ。その気は全然ないらしくって。まったく……なにを考えているんだか」
 列車がホームに停まった。ここからだと、プラットホーム全体を見渡すことができる。降りた客は五人だけだった。
「あ……」
 私はホームに降り立った客の中に、意外な二人連れを発見した。
「すみません。失礼します」
 まだなにかしゃべりたそうにしていた荒瀬の先輩従業員に頭を下げ、急ぎ足で駅の駐車場へと戻る。列車から降り立った意外な人物に内臓まで驚いたのか、空腹はすっかりおさまっていた。
 見間違いなどではなかった。制服を着た女子高生と、足取りの頼りない老人──川嶋亜弥と櫻澤英二郎が、連れ添って改札口から姿を現す。
「……嘘」
 目を凝らして、もう一度二人の姿を確認した。他人のそら似ではない。亜弥とは毎週、高校のプールで顔を合わせているのだ。見間違えるはずがなかった。
 ――新しい恋人ができたらしいっすよ。ずいぶんと歳の離れた彼氏だって、もっぱらの噂です。
 幹成の言葉が、脳裏によみがえる。
 まさか。
 私はバイクの陰に身を隠し、あらためて女子高生を凝視した。やはり亜弥だ。亜弥が老人の手を引っ張って歩いていく。右足を引きずっているのは、おそらく捻挫のせいだろう。一緒に歩く老人も、つぶさに観察した。意地の悪そうな目、大きな鷲鼻、歪んだ口。こちらも間違いなく、櫻澤本人だ。
 彼らは私のそばを通り抜け、駐車場の真ん中に我が物顔で停められていた黒塗りのベンツへ乗り込んだ。
 亜弥の表情から二人の関係を推察しようとしたが、残念ながらなにひとつ読み取ることができない。誰にでも明るく振る舞う彼女の長所が、今回だけは裏目に出てしまったようだ。
 ベンツは真っ黒な排気ガスを吐き出し、乱暴に駅の駐車場を飛び出した。
 人間嫌いの櫻澤が外出?。
 なにかとんでもないことが起こるのではないだろうか。
 根拠のない不安が、私の身体の内側で暴れ回る。
 黒井夢魔を刺し殺そうとする殺人鬼の姿が、脳裏に浮かんだ。殺人鬼の顔は櫻澤だ。
 美神湖の変人、櫻澤英二郎。
 彼は一体、何者なのだろう?

つづく

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