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自由形世代(フリースタイル・ジェネレーション)79

第5章 運命の夏(16)

3(承前)

「気性の激しいお爺さんだってことはわかってます。昨日、店の前で顔を合わせた──豊田さんでしたっけ? あの人は、骨折までしたんでしょ?」
「ああ。あれは櫻澤のせいというかなんというか……」
 荒瀬は含み笑いを見せた。
「俺が風邪をひいちまったもんだから、ピンチヒッターで豊田さんが配達に出かけたときの話なんだ。『今日は都合が悪くなったから、また明日配達に来てくれ』と、インタホン越しにいわれたらしい。たかが、荷物を受け取るだけなのにさ。豊田さんも短気な人だから怒っちまって、『じゃあ、ここに荷物を置いときますから』って答えたんだと。そうしたら櫻澤も急に怒り始めて、豊田さんの話にはまったく耳を傾けようとせず、『早く帰れ、早く帰れ』と怒鳴り散らすばかり。頭に来た豊田さんは、鉄門を力いっぱい蹴った。そうしたらぽっきりいっちまったそうだ」
 私は肩をすくめた。
「骨折した足は、もう大丈夫なんですか?」
「ああ。折ったのは二月だから。あのときは救急車まで呼んで、そりゃもう大変な騒ぎだったんだぜ。豊田さんは櫻澤を訴えるって息巻いていたけど、怪我をしたのは自分のせいだから、どうにもならないわな。逆に、櫻澤のほうから鉄門が壊れたと苦情を申し立てられて、いくらか弁償したらしい」
 荒瀬は、なぜか突然饒舌になった。どうでもいい話題を並べ立て、私が知りたい肝心の情報をごまかそうとしているようにも思える。
「そうそう──翌日はバレンタインデーだったんだ。入院したせいで、誰からもチョコをもらえなかったって、あの人、えらくすねてたっけ」
「え──翌日がバレンタインデー?」
 私は息を呑んだ。
「豊田さんが櫻澤の家を訪ねたのは、何時頃だったんでしょう?」
「夜の十一時頃だったって聞いてるけど。でもどうして、そんなことが気になるんだ?」
「いえ、ちょっと……」
 私は言葉を濁した。
「だけど、どうしてそんな遅い時間に? 配達は毎週土曜日の夕方って決まってたんでしょ?」
「変更があるのはしょっちゅうさ。そのときも、時間を変更してくれと櫻澤が連絡してきたんだ。そんな夜中に配達するのは無理だといったんだけど、どうしてもその時間じゃなきゃダメだと聞かなくて」
「そうですか……」
 思いがけなく出現した新たな手がかりに、私は興奮していた。
 黒井夢魔が《幸福橋》の上から飛び降りたのは、二月十三日の午後十一時だ。その時刻、櫻澤は自宅にいた。つまり、彼が黒井に手を下した可能性はない。いや、本当にそうだろうか。そのアリバイには、どこか作為めいたものを感じてしまう。
「櫻澤はとんでもない爺いだよ」
 荒瀬が悪態をついた。彼の顔には再び、どこかで見かけた憎悪の表情が張りついている。
「じゃあ俺、ホントに急いでるから」
 そう答えると、彼は走行中の車の間を素早くすり抜けて、道路の向こう側へと渡った。
「またな」
 子供のように両手を振り回しながら大声で叫ぶ荒瀬を見て、不意に亮太の姿を思い出す。彼も昨日、同じように私を見送ってくれた。荒瀬と亮太。二人にはどこか、似通った部分があるのかもしれない。
 ……え?
 思いがけない発見に、私は息を呑んだ。

つづく


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