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自由形世代(フリースタイル・ジェネレーション)82

第5章 運命の夏(19)

3(承前)

「砂煙を思いきりまき上げやがって。あのくそ爺いには、ホントむかつくな」
 釣り客の声が耳に届いた。
「あれってベンツだろ? まったく、いいご身分だぜ」
「いいよなあ、金持ちは」
 櫻澤の話であることは間違いない。彼は、今日もどこかへ外出していたのだろうか。一体、どこへ? 頭の中を、様々な思いが駆け巡る。
 結局、釣り客の列は、鉄門の手前までびっしりと隙間なく続いていた。腕時計を確認すると、午後四時二十六分。湖に飛び込むことは不可能だが、なんとか間に合ったようだ。
 大勢の釣り客に混じって、美神湖にカメラを向ける人物を発見する。後頭部の禿げた中年男性だった。双眼鏡を肩からぶら下げ、懸命に三脚の向きを調整している。なにを撮ろうとしているのだろう?
 とめどなく吹き出す汗を拭い、走ってきた道を振り返る。予定どおり、こちらに向かって走ってくるトラックが見えた。私は荒瀬に見つからないよう、釣り客の中に身を隠す。
 汗は大量にかいていたが、それほど暑さは感じなかった。なぜだろう? としばらくの間考え、やがて納得する答えを見つけ出す。南西にそびえる美神山のせいで、湖一帯が日陰になっているのだ。
 真東に視線を移すと、櫻澤の馬鹿でかい屋敷を目にすることができた。そのあたりも、日陰になっている。こんな早い時間から太陽が隠れてしまうなんて、夏は快適だが、冬になったら洗濯物を乾かすのにずいぶんと苦労するだろうな、とよけいな心配までしてしまう。
「おい、また車だぞ」
 釣り客の一人が、迷惑そうにいった。
「またかよ。おちおち釣りも楽しめねえな。ここって、車両通行止めじゃなかったのかよ」
 横目で、軽トラックを観察する。車は門の前で停止し、中から荒瀬が降りてきた。
 午後四時三十分。おそらく三十秒と狂ってはいないはずだ。荒瀬は腕時計を確認しながら、憂鬱そうな表情でインタホンを押した。
「《フレッシュマート美神》の荒瀬です。配達にうかがいました」
 彼の大声が、私のところまで届く。
 しばらく待つと、門はぎぎぎっと錆びついた音を立てながら、ゆっくりと内側に開いた。恐怖映画の寂れた洋館を思わせる光景である。
 門が完全に開ききったことを確認して、荒瀬は再びトラックに乗り込んだ。エンジンを唸らせ、再び車を走らせる。
 今だ!
 私はタイミングを見計らって門の前に飛び出すと、トラックの陰に隠れながら、開いた門をくぐり抜けた。
 途端、あたりの景色が一変した。南国を思わせる珍しい樹木が、そこら中からにょきにょきと生えている。植物園にでも迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えた。鳥のさえずりが四方八方から聞こえてくる。こんな状況でさえなかったら、耳を澄ませて、その音色に聞き惚れていたことだろう。
 鉄門をくぐり抜けて二十メートルほど走ったところでトラックは止まり、エンジン音も停止した。慌てて木陰に身体を隠し、荒瀬の行動を見守る。
 彼はトラックから飛び降りると、荷台の段ボール箱を重そうに抱えた。
 トラックの停まった先は、急に道が細くなっている。人がようやく通れるほどの獣道だ。よく見ると、トラックの脇には、駅前で見かけた黒塗りのベンツも停まっていた。
 視界を木々に邪魔されて、どこに屋敷が建っているかはさっぱりわからない。どのくらい歩けば屋敷にたどり着くかも、見当がつかなかった。

つづく

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