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【分野別音楽史】#06-1「ジャズ史」(草創期)

『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。

本シリーズのここまでの記事

#01-1「クラシック史」 (基本編)
#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)
#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)
#01-4「クラシック史」 (捉えなおし・後編)
#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜
#02 「吹奏楽史」
#03-1 イギリスの大衆音楽史・ミュージックホールの系譜
#03-2 アメリカ民謡と劇場音楽・ミンストレルショーの系譜
#03-3 「ミュージカル史」
#04「映画音楽史」
#05-1「ラテン音楽史」(序論・『ハバネラ』の発生)
#05-2「ラテン音楽史」(アルゼンチン編)
#05-3「ラテン音楽史」(キューバ・カリブ海編)
#05-4「ラテン音楽史」(ブラジル編)

ジャズの歴史は過去記事でもまとめているので再度投稿するかどうか迷ったんですが、この「分野別音楽史」のシリーズとしても位置付けたかったので、ほぼ過去記事とほぼ内容が被ってしまいますが新たにこうして投稿することにしました。

過去記事では1つの記事に大量に詰め込んで書いてしまっていたため、今回は時期ごとにいくつか記事を分けていきたいと思います。また、ここまでの「分野別音楽史」で書いてきたこととも関連を持たせながら、再説明する部分も付加していこうと思います。

まずは草創期のいわゆる「アーリージャズ」のあたりをまとめていきますが、「ラテン音楽史」から続けて読んでいただくと、その共通性に気が付いていただけると思います。それでは参りましょう。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。



◉アメリカ南部・ニューオーリンズの歴史

アメリカ南部のニューオーリンズという街は、キューバなどと同じく、15世紀から200年ほどスペインの領地でした。

その後17世紀に今度はフランスが統治し、奴隷制度が始まりましたが、フランス国内の女刑囚や売春婦もニューオーリンズに送り込まれ、混血が進んでいきます。黒人とスペイン・フランス系の白人との混血者はクレオールと呼ばれました。クレオールは当初、白人と同等の扱いを受け、音楽教育も含めてヨーロッパスタイルの教育を受けていました。

1803年、ナポレオンがルイジアナをアメリカに売却。アメリカの法と奴隷制が施行されたのち、1861年~1865年南北戦争を経て奴隷解放となります。

ここで、人種基準も北部の論理に従うことになり、「一滴でも黒人の血が混じっていれば黒人とみなす」という基準により、今まで恵まれた生活をしていたクレオールの人たちは一転して地位が転落してしまいます。黒人エリート階級は崩壊し、職を奪われたり生活基盤を失う者も多く出ました。

こうした中で、音楽の教養のあるクレオール人は、黒人ブラスバンドの教師役を務めたり、キャバレーのピアノ演奏者となって日銭を稼いだりしました。こうして、アフリカ系の音楽や歌に、クレオールたちが身に着けた西洋音楽の要素が自然に溶け込んでいったと言われています。アメリカ全土ではフォスターのアメリカ民謡やスーザのマーチが大人気の時代です。



◉「ラグタイム」の発生

さて、まずはジャズに繋がるピアノ音楽の系譜としてラグタイムを見ていきます。

19世紀後半にアメリカを代表する劇場娯楽となった差別的なショーである「ミンストレルショー」。その中で、景品のケーキを目指して競争させられる黒人たちのようすを茶化した「ケークウォーク」というダンスが流行っていました。その音楽としてマーチやポルカ風の軽快な2拍子の音楽に黒人風のシンコペーションで組み合わさって表現されていました。

この時期の初期ラテン音楽と同じく、ポルカなどヨーロッパ系の舞踏音楽にアフリカ系のリズムが入り込むことで、非クラシックの「ポピュラー音楽」のスタートとなるのです。

ケークウォークは、フランスのクラシック作曲家ドビュッシーも興味を示し、「ゴリウォーグのケークウォーク」という楽曲においてリズムが取り入れられています。

こうして、このようなリズムがアメリカ南部の黒人達のあいだでもピアノで演奏されるようになり、左手ではマーチに起因する2拍子の伴奏を奏でながら、右手では独特のシンコペーションのリズムを多用するという演奏スタイルが、ずれた時間「ragged-time」略して「ラグタイム」というジャンルになったと言われています(諸説あり)。

19世紀後半に発生したラグタイムは、1893年のシカゴ万博をきっかけに爆発的に流行し、1910年代まで全米で大流行します。なかでもスコット・ジョプリン(1867-1917)、トム・ターピン(1873-1922)、ベン・ハーニー(1872–1938)が有名です。

アルゼンチンのミロンガ、ブラジルのショーロ、キューバのソンなどといったラテン音楽と、時期もリズムの融合した流れ・音楽性もほぼ同じであり、地理的にもキューバのハバナと対岸である港町のニューオーリンズはラテン音楽史と関連が深いことを再度強調しておきます。



◉黒人ブラスバンドとジャズの誕生

南北戦争の終戦を機に、南軍の音楽隊は次々に解散していき、それまで使われていた楽器が市場に大量に放出されることになります。安価で流通し始めた楽器を手にし、見よう見まねで覚えた黒人たちが、独自の音楽を奏でることになっていきます。クレオールは黒人たちにヨーロッパ音楽の橋渡しをした形となりました。譜面通りに演奏する白人ミュージシャンと違い、黒人たちは耳と頭で覚えたものをフィーリングで演奏しました。ラグタイムなどのフィーリングも加えられていき、独自の黒人ブラスバンドのスタイルが出来上がっていきます。これが、ジャズの源流だとされています。

黒人ブラスバンドが上達するにつれ、白人達から「おもしろい」「パレードでやってくれ」と相手にされるようになります。スーザやフォスターなど、世の中全般が音楽を必要としていて、多くの楽団が必要とされていた時代で、需要が高まっていたのです。また、ニューオーリンズでの暑さは異常で、葬儀や埋葬時の演奏、酒場や売春宿での演奏、街頭での呼び込み演奏、冠婚葬祭のパレード演奏など、白人にとって好ましくない条件でも、奴隷経験のある黒人たちにとっては耐性があり、活動することができたのだとも言われています。

ニューオーリンズ特有の文化として、埋葬が終わると「聖者の行進」のように陽気な音楽でパレードをしました。天国に召されることこそ、現世の苦しみから解放される唯一の道という奴隷時代からの意識の表れでもあり、お祭り好きのラテン系の風習でもあるといえます。このようなパレードはセカンド・ラインといいます。

セカンドラインで用いられたリズムパターンは、キューバ音楽におけるハバネラやクラーベのリズムと共通していることもラテン音楽史の記事のところで触れましたが、もう一度復習しておきます。




◉「ニューオーリンズ・ジャズ」または「ディキシーランド・ジャズ」

西洋的な音楽に黒人のフィーリング・即興性が加わり、ニューオーリンズ周辺で産声を上げた黒人たちのブラスバンドの演奏を総称してのちにニューオーリンズ・ジャズと呼ぶことになるのですが、その実態は即興的で力強い黒人音楽もあれば、クレオールによるクラシックの室内楽的な白人向けのものもあるというふうに、さまざまでした。

1897年に、ニューオーリンズには「ストーリーヴィル」という売春容認地区が置けられ、黒人たちの仕事場が数多くでき、白人に受け入れられる演奏をする機会が数多く生まれます。さらに、街灯や広場のパレードが当たり前だったこの時代、街にはブラスバンドがたくさんありました。

その中でコルネット奏者 バディ・ボールデン(1877~1931)が編成したバンドが人気を得ます。音響設備が無くマーチングバンドなどでも音量のためにその編成は常に20人以上が必要だった時代、バディ・ボールデンはコルネット、クラリネット、トロンボーン、チューバ(or ウッドベース)、バンジョー(or ギター)、ピアノ、ドラム、で構成される総勢7~8人の少人数バンドで人々の話題を集めたのでした。これが史上初のジャズバンドとされます。

また、それまでクラシックでは打楽器奏者は小太鼓、大太鼓、などと複数人に分かれていたのが、ディー・ディー・チャンドラーと言う小太鼓奏者が、右足で大太鼓を打ち鳴らすフットペダルを考え出し、小太鼓と大太鼓を同時に演奏して話題を呼びます。ここからドラマーは椅子に座る様になり、そうなると左足ではシンバルを鳴らそう、とハイハット・シンバルの原型が考え出され、複数人数が絶対条件だった打楽器がドラムという一人で演奏可能な楽器に進化を遂げました。バディボールデンはここに目をつけ、少人数バンドを実現し、名声を挙げたのです。このころ、ジャズやブルースでコントラバスが使われ始め、ウッドベースと呼ばれるようになります。

当時、南部一帯を指してディキシーランドという俗称が付いていたため、ニューオーリンズジャズは別名をディキシーランド・ジャズとも呼ばれた、という話があります。しかし、やがて白人の中にも黒人のジャズを真似て、同じような編成で演奏するバンドが出てくるようになり、こちらを黒人のニューオーリンズジャズと区別してディキシーランド・ジャズと呼ばれた、とも言われています。ディキシーランドジャズと呼ばれるようになってから、アメリカ全土やヨーロッパへも広まっていきました。

このころのストーリーヴィルで人気のジャズピアニストだった、ジェリー・ロール・モートン(1890~1941)は、ラグタイムピアノの進化形といえるピアノソロのスタイルをつくるなど、最初期のジャズの偉人とされています。しかし、自分の名刺に「ジャズとスウィングの創始者」と記すなど、派手な性格で、自慢話で話題を呼ぶのが好きだった彼は誇大表現も多く、「ホラ吹きモートン」とも呼ばれていました。現在のポピュラー音楽での共通言語であり記譜の前提であるコード表記はモートンが考案したと言われていますが、真偽のほどは確かではありません。しかし、いずれにしてもニューオーリンズジャズの発達したこの時期にコード表記が生まれたということは確かなようです。

ニューオーリンズ出身の白人ジャズ・バンド、「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(Original Dixieland Jass Band)」は、1917年に世界で初めて、ジャズのレコード音源を発表したバンドとして知られています。これを起点に「ジャズの誕生」と捉え、2017年にはジャズ生誕100年が祝われたりしました。

どうやら、それ以前にもニューオーリンズジャズ的な音源は存在していたようですが、当時まだJazzという語が無く、Jass House Music(売春小屋音楽、Jass=性交を意味するスラング)など言われていたり、ラグタイムやブルースなどと未分化だったり、という理由があるようです。ジャズの語源には諸説ありますが、ともかく1917年の初のジャズ音源の発売をもってジャズの正式な誕生と位置付ける考えが主流となっています。

1917年、アメリカの第一次世界大戦参戦にともない、ストーリーヴィルは突如閉鎖されてしまいます。これにより、黒人音楽家たちは職を失って当てのない暮らしが始まり、ニューオーリンズを離れてシカゴやニューヨークへと場を移し、ジャズの新たな段階へと進んでいきます・・・。

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