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30年日本史(毎日投稿)

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2022年元日から始めた連載。「人間って面白いな」と思えるような、登場人物の個性に着目した日本史講座を目指しています。受験対策になるかどうかは微妙ですが、旅行がより楽しくなるはず…
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あなたのご近所の史跡は? 「30年日本史」市町村索引

あなたのご近所の史跡は? 「30年日本史」市町村索引

連続投稿800日記念として、市町村索引を作ってみました。
各市町村が登場するチャプター番号を一覧にしてありますので、あなたのお住まいの市町村にはどんな史跡があるのか、どんな歴史上の出来事だったのか、ぜひぜひチェックいただければと思います。
※ちなみに京都市、鎌倉市、大津市については登場回数が多すぎて、いまいち正しくカウントできていないかもです。(大津市の登場カウントのほとんどは延暦寺です)

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30年日本史01060【南北朝中期】史上初の半済令

30年日本史01060【南北朝中期】史上初の半済令

 南朝との戦いが予想以上に長引いた上に、肝心な上皇・天皇・皇太子を拉致されてしまい、室町幕府は非常にまずい状況にありました。長期戦に備えて兵糧を確保しなければならない中、どさくさに紛れて発出したのが「半済令(はんぜいれい)」です。
 半済令とは、守護にその国の年貢の半分の徴発を認めるものです。
 鎌倉時代になって、荘園領主と地頭の間の土地紛争が増えたことについては既に述べました。荘園領主と地頭が話

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30年日本史01059【南北朝中期】越中国の攻防

30年日本史01059【南北朝中期】越中国の攻防

 敗北した南朝方は、東国と畿内それぞれに散らばっていた残存勢力を合流させようと決めました。正平7/観応3(1352)年4月27日、越後妻有(新潟県十日町市)にいた新田義宗が7千騎で越中へと向かい、放生津で桃井直常ら3千騎と合流したことは既に述べましたね。
 一方、吉良・石塔らも同じ4月27日に駿河国を発って、6千騎で美濃垂井(岐阜県垂井町)へと向かいました。信濃を拠点としていた宗良親王も、信濃の軍

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30年日本史01058【南北朝中期】八幡の戦い 南朝完全敗北

30年日本史01058【南北朝中期】八幡の戦い 南朝完全敗北

 後村上天皇に近づいて攻めかかる一宮有種に対し、止めに入ったのが法性寺左兵衛佐です。左兵衛佐は
「なんと憎らしい物言いだ。お前に私の腕前を見せてやろう」
と言って馬から飛び降り、太刀で一宮の兜を割れんばかりに打ちました。さすがの一宮も尻餅をついて倒れ、目がくらんでしばらく動けません。その間に天皇は遠く逃げていきました。
 後村上天皇の危機はまだまだ続きます。木津川の西岸ぞいに馬を走らせていると、北

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30年日本史01057【南北朝中期】八幡の戦い 陥落

30年日本史01057【南北朝中期】八幡の戦い 陥落

 八幡の南朝勢は、このまま籠城していても勝ち目がないということで、和田正武・楠木正儀を河内国へ返して、軍勢を整えた上で敵を後ろから攻めようということで、彼ら2人を密かに城から脱出させました。
 これまで戦いを有利に進めていた南朝方は、この2人の脱出を機に突然苦境に陥ってしまいます。というのも、この直後に和田正武が急な病で死んでしまうのです。となると頼みは楠木正儀なのですが、正儀は父や兄とも違っての

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30年日本史01056【南北朝中期】八幡の戦い 総攻撃

30年日本史01056【南北朝中期】八幡の戦い 総攻撃

 山名勢は淀から八幡へと押し寄せていきますが、ここに立ちはだかったのが法性寺左兵衛佐(ほっしょうじのさひょうえのすけ)でした。法性寺という寺院が現在の京都市東山区にありますが、その寺は南朝方についていたらしく、左兵衛佐に任じられていた僧侶が兵を率いて山名勢を迎え討ったわけです。この僧侶の実名は残っておらず、左兵衛佐と呼ぶほかありません。
 その左兵衛佐が、桂川の橋の板を取り外して待っていました。

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30年日本史01055【南北朝中期】八幡の戦い 荒坂山の前哨戦

30年日本史01055【南北朝中期】八幡の戦い 荒坂山の前哨戦

 北朝方の土岐康貞が猪のように山道を駆けのぼってくるのを、南朝方の和田正武は
「何と立派な敵であろうか」
とただじっと見ていましたが、相手が近づいてくると構えていた楯を投げ捨て、長刀を持ってこれと対峙しました。
 一騎討ちかと思いきや、北朝方の郎党で関左近将監(せきさこんのしょうげん:?~1352)という兵が、土岐の脇から走り出て和田正武に討ってかかって来ました。これを見た和田の家来がすぐに矢を引

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30年日本史01054【南北朝中期】八幡の戦い 京都奪回

30年日本史01054【南北朝中期】八幡の戦い 京都奪回

 義詮は近江の四十九院(滋賀県豊郷町)に逃れたわけですが、東国で尊氏が勝利したとの知らせが入ったことで畿内でも足利方に味方する軍勢が増え、義詮の陣には多くの味方が馳せ参じました。
 正平7/観応3(1352)年3月11日。義詮は四十九院を発って、3万騎で京に向かいます。一方南朝方の北畠具忠は、千騎で足利勢を防ぐために大津に布陣していましたが、敵があまりに大軍なのを見てさすがに敵わぬと見て八幡へと退

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30年日本史01053【南北朝中期】第四次京都合戦 光厳院捕縛

30年日本史01053【南北朝中期】第四次京都合戦 光厳院捕縛

 吉野に連れていくという北畠顕能に対し、光明上皇は涙を浮かべて、
「天下が乱れる中で帝位に就いたけれども、それは自ら望んでなったものではない。現に私は何一つ政治を思い通りに行っていない。天皇の威光が消えて暗い時代となった今、できることなら隠居して静かに過ごしたいと思っているのだが、それすらできない時節の辛さをお察しいただけないか。今はただ仏門に入って片田舎でひっそり暮らしたいと思う。以上の旨を何卒

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30年日本史01052【南北朝中期】第四次京都合戦 忘れ物再び

30年日本史01052【南北朝中期】第四次京都合戦 忘れ物再び

 さて、正平の一統はいとも簡単に破られてしまいました。義詮は南朝に降伏すると言って、その具体的な条件を相談し始めていたのに、南朝方は一方的にその約束を破って京に攻め入ってきたのです。
 思わぬ裏切りにあった幕府方は、また北朝方の元号を使い始めます。これ以降は再び「正平7/観応3(1352)年」というように、南北朝それぞれの元号を併用することとします。
 さて、太平記に記述はありませんが、史料による

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30年日本史01051【南北朝中期】第四次京都合戦 細川頼春戦死

30年日本史01051【南北朝中期】第四次京都合戦 細川頼春戦死

 東国で起こった武蔵野合戦について見てきました。ここからは、同時並行的に京で起こった第四次京都合戦について見ていきます。
 正平7(1352)年閏2月19日。後村上天皇の軍が八幡に到着したところまでは既にお話ししましたね。義詮が懸念していたとおり、南朝方は和睦を一方的に破棄して京に攻め入ってきます。第四次京都合戦の始まりです。
 閏2月20日朝8時。まずは北畠顕能が3千騎で鳥羽から京へと攻め寄せま

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30年日本史01050【南北朝中期】武蔵野合戦 太平記と史実

30年日本史01050【南北朝中期】武蔵野合戦 太平記と史実

 その後、6千騎で鎌倉を占拠していた新田義興・脇屋義治のもとに、尊氏軍が鎌倉に攻め寄せてくるとの情報が入りました。義興・義治はここで討ち死にしようと述べますが、家臣の松田・川村らが
「私たちの所領である相模川の上流に、河村(神奈川県山北町)といううってつけの場所があります。まずはそこへ避難して、諸国の兵を集めて合戦に備えられてはどうでしょう」
と進言したので、正平7(1352)年3月4日、義興・義

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30年日本史01049【南北朝中期】武蔵野合戦 義宗逃亡

30年日本史01049【南北朝中期】武蔵野合戦 義宗逃亡

 さて、新田軍の大将として活動していた上杉憲顕の家中に、長尾弾正(ながおだんじょう)と禰津小次郎(ねづこじろう)という強者がいました。この2人は、合戦に負けてしまったもののどうにかして逆転したいと思い、足利軍に紛れ込んでこっそり尊氏に近づき、これを討とうという作戦を練っていました。
 2人とも二つ引きの足利家の笠印に付け替え、誰だか分からないように乱れ髪を顔にざっと振りかけ、さらに禰津は刀で自分の

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30年日本史01048【南北朝中期】武蔵野合戦 笛吹峠の再戦

30年日本史01048【南北朝中期】武蔵野合戦 笛吹峠の再戦

 引き続き、太平記が記す武蔵野合戦を追いかけていきます。史実からは多少離れてしまうかもしれません。
 義興・義治は仲間と合流できたことを喜び、石塔・三浦とともに鎌倉に攻め込みました。
 鎌倉を守る足利基氏は、当初は3千騎で化粧坂と巨福呂坂を塞いで厳しく用心していたのですが、たまたま三浦半島に敵がいるとの偽情報に乗せられて、三浦半島に軍勢を向けてしまったところでした。新田方にとってはまさにちょうどよ

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