![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/171620851/rectangle_large_type_2_29f458c826319cd25d21ccd864778b84.png?width=1200)
30年日本史01056【南北朝中期】八幡の戦い 総攻撃
戦闘において「橋の板を外す」という手法は飛鳥時代から何度も行われてきたようですね。平家物語にも太平記にも頻繁に出てきます。
山名勢は淀から八幡へと押し寄せていきますが、ここに立ちはだかったのが法性寺左兵衛佐(ほっしょうじのさひょうえのすけ)でした。法性寺という寺院が現在の京都市東山区にありますが、その寺は南朝方についていたらしく、左兵衛佐に任じられていた僧侶が兵を率いて山名勢を迎え討ったわけです。この僧侶の実名は残っておらず、左兵衛佐と呼ぶほかありません。
その左兵衛佐が、桂川の橋の板を取り外して待っていました。
山名時氏は桂川を渡ることができず、筏を作って渡ろうというので周囲の民家を壊して筏を組んだのですが、長雨で水かさが増していた桂川に浮かべるとあっという間に流されてしまいました。そこで山名勢は浅瀬があるところを探し出し、2千騎を一隊として流れを押し切りながらどうにか川を渡りました。
渡った先に待ち構えていたのが、法性寺左兵衛佐です。ただ1騎で川向こうに立ち、山名勢3騎を斬って捨てて悠然と帰ろうとするので、山名勢が
「大将と見えるのに、見苦しくも敵に後ろを見せられるのか」
と言ってこれを追跡しました。左兵衛佐は
「引き返すのはたやすい」
と言って引き返しては敵を斬って落としを17回も繰り返しました。結局、山名勢は左兵衛佐を取り逃がしてしまいました。
正平7/観応3(1352)年4月25日。これまで劣勢だった北朝方による八幡への総攻撃が始まります。人数的には北朝方がだいぶ有利であり、ようやく巻き返しが叶いそうです。
南朝方は北畠顕能が3千騎で園殿口(八幡の東側)の防備を、和田・楠木が更科(八幡の西側)の防備をそれぞれ担当します。一方、攻め手の北朝方2万騎は洞ヶ峠に上がって八幡山を取り囲み、攻めかかりました。
詳細は伝わっていませんが、結果はなんと北朝方の敗北に終わりました。総大将・細川顕氏が負傷したといいますから、激戦だったのでしょう。
勝利した南朝軍は敵に更なる打撃を与えるべく、5月4日に7千騎の中から精鋭800人を選んで、法性寺左兵衛佐に付けて奇襲を担当させました。左兵衛佐は夜更けを待って山を駆け降り、一挙に奇襲をかけます。
北朝方の細川軍3千人は、狭く暗い山道にいたせいで戦闘の準備もままならず、多くが討たれたり谷底に落ちたりして死傷しました。しかしやられたのは細川勢だけで、他の土岐・佐々木・山名・赤松らは一糸乱れることなく軍勢を整えていたので、左兵衛佐は
「これでは他の軍への奇襲は無理だ」
と判断し、一旦山へ引き返します。