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30年日本史01058【南北朝中期】八幡の戦い 南朝完全敗北

三種の神器もかなりの戦火をくぐってきていますね。よく無事に済んだものです。

 後村上天皇に近づいて攻めかかる一宮有種に対し、止めに入ったのが法性寺左兵衛佐です。左兵衛佐は
「なんと憎らしい物言いだ。お前に私の腕前を見せてやろう」
と言って馬から飛び降り、太刀で一宮の兜を割れんばかりに打ちました。さすがの一宮も尻餅をついて倒れ、目がくらんでしばらく動けません。その間に天皇は遠く逃げていきました。
 後村上天皇の危機はまだまだ続きます。木津川の西岸ぞいに馬を走らせていると、北朝方の兵2、300騎に取り囲まれました。四方から雨のごとく矢が降り注ぎますが、天皇の袖に矢が2本当たっただけで、無傷で済みました。
 その後もまだまだ敵が追跡してきたものの、法性寺左兵衛佐が殿(しんがり)として上手く敵を追い散らし、天皇を無事に逃がしました。
 この逃亡劇は大混乱だったらしく、天皇の従者が八咫鏡が入っている櫃(ひつ)を、なんと田んぼの中に捨ててしまったといいます。これを見た伯耆長生(ほうきながお)という人物が、着ていた鎧を脱ぎ捨てて櫃を背負いました。
 その後も追っ手が多数の矢を射て来ました。櫃の蓋に矢が当たる音が何度も聞こえましたが、神の加護があったのか、伯耆長生の体には一本も当たりません。
 賀名生まで逃げおおせたところで櫃をチェックしてみたところ、櫃の蓋に矢の跡は13本もあったものの、蓋を射通したものは一つもなかったといいます。
 賀名生に到着した南朝一行は、児島高徳を呼んで
「急いで東国・北国へ下って、今回の敗北を新田一族に伝えよ。そして小山や宇都宮といった武将たちを誘って挙兵せよ」
と指示しました。これを受けて児島高徳は急ぎ関東に向かいましたが、既に武蔵野合戦は終了しており、新田義興・脇屋義治は河村(神奈川県山北町)に立て籠もり、義宗は越後国に逃亡済みの状況でした。
 太平記には載っていない話ですが、史料によると正平7/観応3(1352)年3月には東国でことごとく南朝方が敗北していることが確認できます。
 まず、直義党の吉良貞家が陸奥国府(多賀城)を南朝方から奪回しています。吉良貞家は正平6/観応2(1351)年11月22日の広瀬川の戦い(宮城県仙台市)で北畠顕信に敗れ、多賀城を放棄していたのですが、その敗北から4ヶ月後に城を取り戻したわけです。
 続いて3月12日、尊氏は笛吹峠にいた南朝軍を破り、北条時行を敗走させました。
 さらに3月15日、尊氏は相模国河村城に潜伏していた新田義興を破り、敗走させています。
 以上のとおり、畿内・東国ともに北朝方が勝利し、南朝方は一気に勢いを減退させていきました。

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