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30年日本史01053【南北朝中期】第四次京都合戦 光厳院捕縛

賀名生(奈良県五條市)にも一度行ってみたいのですが、なかなか機会がありません。地図で見る限り、かなりの山奥のようですね。

 吉野に連れていくという北畠顕能に対し、光明上皇は涙を浮かべて、
「天下が乱れる中で帝位に就いたけれども、それは自ら望んでなったものではない。現に私は何一つ政治を思い通りに行っていない。天皇の威光が消えて暗い時代となった今、できることなら隠居して静かに過ごしたいと思っているのだが、それすらできない時節の辛さをお察しいただけないか。今はただ仏門に入って片田舎でひっそり暮らしたいと思う。以上の旨を何卒(南朝方の後村上天皇に)奏上いただきたい」
と述べますが、北畠顕能は
「既に帝の命令をいただいた以上、そのようなことを奏上できません」
と言って、二台の車に光厳上皇・光明上皇・崇光天皇・直仁皇太子を乗せてしまいました。
 こうして四人は、まず八幡へと連れていかれました。八幡で後村上天皇と対面したと思われますが、その記録はありません。
 その後、八幡から河内国の弘川寺(大阪府河南町)に連行されます。この連行中に突然待遇が変わり、虜囚扱いとなりました。みすぼらしい粗末な輿に乗せ換えられたのです。
 少し先の話になりますが、正平7/観応3(1352)年6月5日、後村上天皇が東条(大阪府富田林市)から賀名生に戻る際に、四人もあわせて賀名生に連行されました。
 賀名生での四人の処遇はひどいものでした。後村上天皇の皇居でさえも、黒木の柱、竹の垂木、柴の垣根で出来たあまりきれいとはいえない住まいだったそうですから、まして虜囚である四人の住まいは言うに及びません。
 年数が経って崩れた庵、隙間だらけの杉の板でできた壁、雨漏りのひどい屋根、夜明けは隙間風で寒く、猿の群れが夕暮れに鳴いてうるさく、とても住めたものではありません。四人は毎日むせび泣いて暮らしたと伝えられています。
 以前、光厳天皇について「光厳院~地獄を二度も見た天皇~」というタイトルの伝記が出版されていることをご紹介しました(00735回参照)。その一度目の地獄とは、近江国番場宿で、六波羅探題の兵432人が一斉に自害する場面を目のあたりにしたことでした(00789回参照)。そして賀名生での幽囚の日々が二度目の地獄です。歴代天皇の中でかくもひどい生涯を送った人物はなかなかいないと思われます。
 ちなみに南朝方は、光厳上皇の次男・弥仁親王(いやひとしんのう:後の後光厳天皇:1338~1374)をも捕らえようとしたらしいのですが、義詮の庇護下にあったため断念したようです。北朝方は、唯一助かったこの弥仁親王に皇位を託すこととなります。

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