30年日本史01055【南北朝中期】八幡の戦い 荒坂山の前哨戦
北朝方の土岐康貞が猪のように山道を駆けのぼってくるのを、南朝方の和田正武は
「何と立派な敵であろうか」
とただじっと見ていましたが、相手が近づいてくると構えていた楯を投げ捨て、長刀を持ってこれと対峙しました。
一騎討ちかと思いきや、北朝方の郎党で関左近将監(せきさこんのしょうげん:?~1352)という兵が、土岐の脇から走り出て和田正武に討ってかかって来ました。これを見た和田の家来がすぐに矢を引き絞り、関の胴体を貫きます。土岐康貞は関の身体に走り寄って起こそうとしますが、和田の家来はさらに二の矢を放ち、康貞の着用していた脇楯を深々と貫きます。
もはや助けてくれる人はいないと思った関左近将監は腰の刀を抜いて切腹を試みますが、土岐康貞は
「待て、自害するな。今から助ける」
と言って矢の刺さった脇楯を引きちぎり、敵を5、6人斬り捨てて関左近将監を小脇に抱え、ひたすら逃げていきました。実に郎党思いの大将です。和田正武はこれを追跡するものの、追いつきません。
追跡を諦めたところに、たまたま土岐康貞の運が尽きたのか、路肩の土がぐらっと崩れて2人は穴に落ち込んでしまいます。和田は難なくそれを上から討ち取りました。
後村上天皇の元に戻った和田が合戦の様子を報告すると、天皇は
「初めに言った言葉に違わず、敵の大将を討ち取ってきたことは前代未聞の手柄である」
と深くねぎらいの言葉をかけました。
こうして八幡の戦いの前哨戦・荒坂山の戦いは南朝方の勝利に終わりました。
とはいえ、荒坂山を取り囲む北朝軍の数は相当なもので、これ以上はもたないだろうと判断した南朝軍は、一旦八幡に退きます。これを見た北朝軍は翌朝、さっそく入れ替わるように荒坂山に布陣しました。ここを占領すれば大分有利になると判断したのでしょう。しかし北朝軍は要害である八幡を攻めかねて、荒坂山の陣からただ遠巻きに見ているだけでした。
しばらく両者とも見合っていただけでしたが、数日後に動きがありました。山名時氏が出雲・因幡・伯耆3ヶ国の軍勢を率いて上洛してきたのです。
山名時氏といえば幕府の重臣ではあるものの直義党の幹部であり、果たしてどちらの味方をするのか気になるところですが、どうやら尊氏方として南朝を攻めるためにやってきたようです。