30年日本史01057【南北朝中期】八幡の戦い 陥落
八幡の南朝勢は、このまま籠城していても勝ち目がないということで、和田正武・楠木正儀を河内国へ返して、軍勢を整えた上で敵を後ろから攻めようということで、彼ら2人を密かに城から脱出させました。
これまで戦いを有利に進めていた南朝方は、この2人の脱出を機に突然苦境に陥ってしまいます。というのも、この直後に和田正武が急な病で死んでしまうのです。となると頼みは楠木正儀なのですが、正儀は父や兄とも違ってのんびりした性格で、
「八幡の敵は明日にでもどうにかしよう」
というばかりで急ごうとしません。周囲の者は
「正成の子であり、正行の弟であるはずの正儀が、なぜこんなに父や兄に比べて劣っているのか」
と非難したといいます。
太平記は以上のように伝えているのですが、和田正武は少なくとも弘和2/永徳2(1382)年まで生きていたことが記録されているので、和田の病死については誤りです。また、楠木正儀をこき下ろしている点についても誤りです。というのも、史料によるとこのとき正儀は国松村(大阪府寝屋川市)で北朝と交戦していたはずで、八幡にはいなかったはずなのです。
史料を見ると、正平7/観応3(1352)年4月27日に八幡の南朝軍を救うべく、越後の新田義宗が挙兵しています。7千騎で北陸道を南下し、越中の放生津(富山県射水市)で桃井直常率いる3千騎と合流したといいます。
ところが結局、この新田・桃井の救援は間に合いませんでした。5月には兵糧不足のため八幡から投降者が続出し、5月11日の総攻撃で遂に八幡は陥落してしまうのです。つまり
「救援が遅い」
といって非難すべき相手は楠木正儀ではなく、新田義宗・桃井直常かもしれません。
ここから太平記の記述に戻りますが、5月11日、八幡の南朝軍は後村上天皇を何とか逃がそうと、甲冑姿の天皇を馬に乗せ、兵で取り囲んで山を下りました。このとき数万の北朝軍が立ちはだかり、合戦となりました。天皇や北畠顕能は上手く逃げおおせたのですが、乱戦の中、四条隆資と北畠具忠は殺害されてしまいます。洞院実世は九死に一生を得てどうにか生き延びました。
このとき、甲冑姿の後村上天皇を大将首と勘違いした一宮有種(いちのみやありたね)という武士が、
「しかるべき大将とお見受けする。見苦しくも敵に追い立てられて後ろを見せるのか」
と叫んで攻めかかりました。知らなかったとはいえ、天皇を相手に名乗りを挙げて挑発し、攻めかかったのは歴史上彼だけでしょう。