見出し画像

30年日本史01060【南北朝中期】史上初の半済令

高校日本史では、戦闘の詳細よりも土地制度史の方が細かく出題されます。本稿では逆に土地制度はさらっとした説明にとどめるつもりです。

 南朝との戦いが予想以上に長引いた上に、肝心な上皇・天皇・皇太子を拉致されてしまい、室町幕府は非常にまずい状況にありました。長期戦に備えて兵糧を確保しなければならない中、どさくさに紛れて発出したのが「半済令(はんぜいれい)」です。
 半済令とは、守護にその国の年貢の半分の徴発を認めるものです。
 鎌倉時代になって、荘園領主と地頭の間の土地紛争が増えたことについては既に述べました。荘園領主と地頭が話し合って、「地頭請」や「下地中分」といった取り決めが行われ、荘園領主側が譲歩を余儀なくされるケースが増えてきたのでした(00738~00739回参照)。
 そして今回出された「半済令」は、なんと
「その国の年貢の半分は、守護が自らの取り分にしてよい」
というとんでもない法令でした。朝廷に納めるべき年貢が守護のものになってしまうのです。「代理で徴収して朝廷に納める」のではなく、「徴収して自分のものにしてしまう」わけですから、もはや朝廷の徴税権を(半分とはいえ)否定するに近いものです。北朝方の上皇も天皇も不在という異常事態だからこそ出せたものでしょう。
 史上初の半済令は、正平7/観応3(1352)年7月24日、激戦地であった近江・美濃・尾張の三国に対し、1年限りという条件で出されました。それぞれの国の守護は
・近江守護: 六角直綱(ろっかくなおつな)
・美濃・尾張守護: 土岐頼康
であり、2人とも幕府から厚く信頼されていたと推察されます。
 この半済令の反響はすさまじく、周辺国の守護からも強い要望が出てきました。やむなく幕府は翌8月に
・河内国: 守護は高師秀(こうのもろひで)
・和泉国: 守護は細川顕氏
・伊賀・伊勢・志摩国: 守護はいずれも仁木義長
にも半済令を出すこととなりました。
 その後も各国に半済令が出され、その年限も撤廃されて永続的なものとなりました。こうして守護の権限はいやでも拡大していきました。
 もっとも、近年の研究では半済令を「守護が半分もらえる」のではなく「守護が半分しかもらえない」点に着目する見方もあるようです。つまり、放置すると守護が大半を略奪してしまうので、
「守護たちよ、略奪も程々にしておけよ。気の毒な荘園領主に半分残してやれよ」
といった意味合いがあったかもしれないというのです。
 ちなみに、半済令が出る直前の7月5日には和泉守護の細川顕氏が急死しています。戦の怪我によるものとみられます。半済令が出た8月には、和泉守護の後継者を選定していた最中だったと思われます。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集