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30年日本史01052【南北朝中期】第四次京都合戦 忘れ物再び

このあたり、どう考えても南朝の方が悪いと思うんですよね。大日本帝国時代、南朝を正義と見ていた学者たちは正平の一統をどう見ていたのか気になります。

 さて、正平の一統はいとも簡単に破られてしまいました。義詮は南朝に降伏すると言って、その具体的な条件を相談し始めていたのに、南朝方は一方的にその約束を破って京に攻め入ってきたのです。
 思わぬ裏切りにあった幕府方は、また北朝方の元号を使い始めます。これ以降は再び「正平7/観応3(1352)年」というように、南北朝それぞれの元号を併用することとします。
 さて、太平記に記述はありませんが、史料によると第四次京都合戦の直後、赤松則祐は擁立していた興良親王を吉野に送還し、これ以後は一貫して義詮に従うようになりました。
 赤松則祐といえば護良親王の忠臣として仕え、父・円心や兄・範資が尊氏方に仕えていたにもかかわらず、南朝方に与していた人物です。その則祐が、遂に南朝との関係を捨て、幕府方につくこととなったわけです。
 理由は定かではありませんが、正平の一統において南朝方の窓口として働いた則祐は、和睦を一方的に破棄した南朝方に愛想を尽かしたのではないでしょうか。これ以降、赤松家は幕府の重臣の一つとみなされるようになります。
 さて、近江の四十九院(滋賀県豊郷町)に逃亡した義詮は、京を奪回すべく兵を集め始めました。一方で京を占領した南朝方は、近江の義詮軍を攻め滅ぼせるほどの軍勢をなかなか集められません。まだ後村上天皇が京に入るには懸念があるということで、とりあえず北畠親房・顕能父子が京に入って政務を執り行いました。その他の公卿は天皇とともに八幡で待機となります。
 さて、第三次京都合戦において義詮が京から逃亡するとき、重大な「忘れ物」をしたことについて既に述べました。そう、北朝の上皇や天皇を置いてきてしまったのです。
 そのときはたまたま、南朝方が上皇や天皇に手出ししなかったので事なきを得ましたが、この第四次京都合戦においても、義詮はまたまた同じ忘れ物をしてしまいました。南朝はこれ幸いと、北朝の上皇・天皇を人質として利用することとなります。
 正平7/観応3(1352)年閏2月21日(太平記によると27日)、北畠顕能が500騎を率いて北朝の皇居にやって来て、周囲の門を固めさせました。皇后や女院たちは
「ああ、上皇や帝を亡き者にしようとしている」
とすっかり動転してしまうのですが、顕能は落ち着いて
「世の中が鎮まるまで、皇居を吉野へお移し申すと帝が仰せです」
と述べました。つまり、光厳上皇・光明上皇・崇光天皇・直仁親王を吉野に連れていくというのです。あくまでも「戦火の迫る京から四人を保護するため」という名目です。

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