30年日本史01059【南北朝中期】越中国の攻防
敗北した南朝方は、東国と畿内それぞれに散らばっていた残存勢力を合流させようと決めました。正平7/観応3(1352)年4月27日、越後妻有(新潟県十日町市)にいた新田義宗が7千騎で越中へと向かい、放生津で桃井直常ら3千騎と合流したことは既に述べましたね。
一方、吉良・石塔らも同じ4月27日に駿河国を発って、6千騎で美濃垂井(岐阜県垂井町)へと向かいました。信濃を拠点としていた宗良親王も、信濃の軍勢を率いて上洛を目指します。伊予国では土居・得能らが兵船百艘を連れて海上から攻め上ります。
南朝方は壊滅的な打撃を受けたものの、まだ全国の兵を合わせればどうにか戦えそうな状況です。北朝方は八幡の戦いの勝利に乗じて、このまま一挙に賀名生に攻めこもうと思っていたのでしょうが、南朝勢力の結集を知り、なかなか手を出せなくなってしまいました。
京を奪還したばかりの義詮は、5月18日、祖曇(そどん)という僧侶を河内国東条(大阪府富田林市)に派遣して和睦交渉に当たらせました。義詮の要求は、まずは上皇や天皇を京に帰還させることでした。
南朝方の交渉窓口は楠木正儀で、この交渉は当初は順調に進んでいましたが、正儀が後村上天皇の了解を取らず単独交渉していたことが露見し、失敗に終わりました。
実際、南朝方もそこまで強気に出られるほど十分な兵力を確保できていたわけではありません。6月5日には東条を維持できず、後村上天皇以下南朝の面々は賀名生へと戻ることとなりました。このとき、光明上皇が
「我々はなりたくて皇位に即いたわけではない。出家して隠遁したい」
と泣いて懇願したにもかかわらず賀名生に連行されたことは前述のとおりです(01053回参照)。
戦は止まりません。義詮は越中を占拠する南朝勢力を一掃するため、能登守護・吉見氏頼(よしみうじより)に桃井直常討伐命令を出しました。実際には越中には桃井だけでなく新田義宗もおり、義宗こそが大将首だったのですが、義詮のもとにはそこまで詳しい情報が入っていなかったのでしょう。
6月6日、越中国芝峠(富山県氷見市)に陣を置いた吉見に対し、桃井直常が先制攻撃を加えました。この戦いは互角に終わりましたが、6月8日には桃井側の水谷城(富山県氷見市)を吉見が攻撃し、桃井は敗走します。
その後も年末に至るまで、越中国内では三角山城(富山県上市町)、木谷城(富山県氷見市)、師子頭城(富山県高岡市)などを舞台に、桃井軍と吉見軍の戦いが続けられました。