随筆(2020/10/28):「共感と問題解決」というモデルは、「存在と真理」というモデルに、さらに単純化できる(4最終)
4.単なる「存在」は「同調」して「共感」した方が良く、問題があるなら「真理」パワーで「解明」して「問題解決」に役立てた方が良い
4.1.「問題解決」しないと安全でない場合は「真理」が効いて来ることが多いが、「存在」は「共感」していればよいことも多々ある
そんな訳で、先ほど説明した驚きの感情は、単なる「驚異」である場合と、迫り来る「脅威」である場合があります。
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単なる驚異なら、相手が
「あるがままに驚いた」
ということをまず受け留め、
「おっ、これは確かに驚くだけのことはあるな」
とあるがままに投げ返せば、実はこれで相手と同じことを言っているので、
「自分と相手は同じ話題を持つ」
という共通認識がかなり確定してくるんですよ。これは人間関係の安定に非常に効いて来る。
安心もするので、そのうち感覚ではなく感情レベルでの共感もかなりやりやすくなる。
受け留めと投げ返しによる同調は、事程左様に大事なものです。
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メチャクチャ当たり前の話をしますが、
「おっ、これは確かに驚くだけのことはあるな」
という同調と、
「これはこのような謂れがあって云々」
という解明が、同じものである訳がありません。
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そこに問題がある場合は、解決を下支えする解明は、圧倒的に効果があります。
真理があってはじめて成り立つ事柄が、問題として立ち塞がる場合は、真理が解明されれば、解決はふつう極めて容易くなる。
問題解決をしないと、事態が安全でない場合は、真理の解明がスーッと効いて来ることが多い。
真理には、そういう有難みがある訳です。
4.2.無問題にもかかわらず、真理パワーで問題解決したがるの、やめといた方がいいですよ
が、そこに問題がない場合は、解決や解明をやっているやつは、そもそもお話にならないでしょう。
問題がないのに解決や解明をやろうとする人、亡霊を相手にしている。要は、問題について、何ら真面目に見ようとしていない。
じゃあ、そいつの問題解決能力は限定的なもので、全体的に見た場合、大きな疑義がある。
そこまで見切られてしまっても、まあしょうがないところでしょうね。
4.3.共感はやれなくても、受け留めのムーブと投げ返しのムーブによって成る、ものすごく素朴な同調なら、まだ何とかやれるし、それでもそれなりには効く
で、問題がない時に、人間関係に効くのは、これは圧倒的に同調でしょう。
視界の範囲内を見てみましょう。
そもそも共通の話題がないので、共通認識があるかどうかから疑われているし、信頼してもらえていない、だからそれ以上のコミュニケーションが成り立たないし、説明も伝わらない。
逆に、これらが全部通ってうまくいっている場合もある。
失敗例も成功例も含めて、そんな人間関係って、ありふれているでしょう。
(ない? 本当に視界の範囲内をよく見て言ってる? 視界を狭く取りすぎてない?)
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実践と結果と成果が評価される仕事組織や、契約の履行や納品がされてないと話にならない取引ならともかく、そうでない人間関係というのも、たくさんあるんですよ。
そこでは、相手が感情を口にした、つまりは相手の感情に訴えることが明らかな話題を、そのまま「そうだね」と投げ返せば、同調は直ちに出来る。
そして、共通の話題が出来る。人間関係はたいていここから始まる。やっていきましょう。
4.4.残念ながら、上の素朴な共感をもってしても、感性が異なりすぎるから、うまくいかないことは多々ある。じゃあテキパキお断りを入れましょう
ここで「そうか?」となるのなら、相手との感性の差は大きい訳だ。
そういうことが多すぎると「相性が悪い」とか「うまくいかない」とかになりがちだ。
そうなっちゃったら、それはそういうものだから、ダラダラ付き合うこともない。
お互いの時間のためにも、以降の連絡を絶つなり、テキパキと解消を明示的に宣言するなりすればよいのだ。
4.5.「相手に腹を割らないで去っていく」方が、「相手に最後に腹を割るよう試みてから去る」よりも、「ナメてる」と受け取られがちだし、だから報復されるリスクは大幅に高まる
「正直に言うと、相手が怒って、自分が危険になるかも知れない」?
これを言う人、かなりいるけど、訳が分からない。
正直に言うのと、誤魔化すのと、どっちがより高確率で相手を怒らせて攻撃されると思う?
「侮辱と受け取る」
から怒る。
それはそうよ。
だが、
「最後に一度だけ腹を割って話すから、良く聞きなさい。
説明が伝わらないのは、私と、そしてあなたの不徳のなすところだ。
こんなことしなきゃなんない時点で、話がうまく成り立ってなかった証拠だ。だからダメなんだ。
だが、少なくとも私は、今こうして、あなたに対する説明を、最終的には試みたからな」
というのと、
「テメーにゃ話が通じねーから、腹を割って話す値打ちを認めねーんだよ。おおこわいこわい」
というのと、
どちらが「ナメてる」と思う? 後者に決まっとるやろ。
後者を選ぶ人、自分で脅威を生じさせているのと同じことなんで、本当にやめた方がいいですよ。
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もちろん、前者の時点でキレる人は、いる。
それでは、困る。
そしてこれは、この手で行っても、どうにもならない。
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だが、後者をやるよりは、前者の方が、そういう地雷の爆発のリスクは、実は低いんです。
両方やらざるを得ない程には安全だった方々は、そんなことは知らないかも知れないが、私はたくさん踏んだから知っているんですよ。ヒデエ目に遭った…
(それはそれでバカっぽくないかね俺)
(バカでも何でもやるしかないし、やったことから学ぶのは大事な話でしょう)
そして、それを、他の人がやってるのを見たら、止めたくもなるんです。
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攻撃のリスクが、何より一番困るのでしょう。
労力のコストや、疲労感よりも。
ならば、コストや疲労感のために、リスクを下げないし、むしろ上がるのを放置しているの、ニーズから考えたら、本末転倒もいいところだ。
リスクを下げることを、労力のコストや疲労感より、優先した方がいいですよ。
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たとえそれが、
「今日は安全だが、明日も明後日も安全かどうかはわからん。
頻度は低くても、やはり攻撃は何かしら偶発的に起きる。
なんか、リスクゼロに出来ない時点で、やる気もへったくれもないぞ」
というものであっても、
「一昨日も今日も攻撃を食らった。昨日は攻撃がなくて良かったが、たぶん明日や明後日また攻撃があるだろう。
こんなん嫌だなあ。
だけど、抗う元気も、耐える元気も、逃げる元気も、もうないんだよなあ。受けるしかないんだよなあ」
というのよりは、私の感覚では、圧倒的にマシだと思うんですよ…
4.6.単なる「存在」は「同調」して「共感」した方が良く、問題があるなら「真理」パワーで「解明」して「問題解決」に役立てた方が良い
ということで、「共感と問題解決」という、高度で根拠の怪しげなモデルは、「存在と真理」という、もっとベターッと地べたに近いモデルに、基礎づけることが出来ます。
実践上は、これらのモデルの適用の基準は、「解決すべき問題があるかどうか」です。
問題がない、「あるがまま受け入れてよい時」は、存在しているものを、あるがままに、同調すればよい。
解明や解決は、ここでやったら、バカを見る。
問題がある、「扱い方が分からないと安全でない時」は、問題の背景にある、真理の解明や、それを介しての問題の解決をすればよい。
ここでは、同調は「やってもいい」が、解明や解決は「やれるだけやることが望ましい」。それくらいの温度差がある。
そういう基準で、社交や処世を、やっていきましょう。
(いじょうです)
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