随筆(2021/7/6):愚痴と問題解決
1.愚痴を言うのが良いのではなく、問題解決をするのが悪いのでもなく、人のニーズを見もせず確認もせず、人の話を自分のニーズに誤誘導すること「が」悪いのだ
世の中、
「愚痴が言いたい時に、相手が問題解決するの、愚劣な男性器どものやること」
という話があり、一見もっともらしいのですが、これを私は心底
「それは俗流であり、もっと大きな話を矮小化した、意味合いが歪曲されたモデルだ。
それに自分を押し込めて嬉々とするの、自分が楽になるかもしれないが、脳がゾンビみたいに腐って不幸になるから、本当にやめた方がいいですよ」
と舌打ちしている側の人間なんですよ。
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少なくとも、
「文句を言っても問題が解決しない。
不満が脳の容量を無駄に食ってコストがかかる。
不満をなくすには、手を動かすしかない。
そうして問題が消えたら、楽にはなる」
という状態になっている人に、
「愚劣な男性器どもに賢い我々が上から目線で善意でマウンティングモードで教えてやる。
お前の問題解決の姿勢、邪悪だから、やめろ」
をやった時点で、
「あっコイツ人の話全然聞いてないし人の問題意識全然見えてねえ」
という話にしかなり得ないじゃないですか。
***
「そんな話はしていない。人の話の聞き方がおかしいんじゃないか」?
そうですか。
そう悪意を以て受け止められているのは何故か、本当にちゃんと確認しましたか?
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もちろん、面倒ですよ。これをやるのは。
だからって、これをやってないで、アドバイス罪をするの、正に問題解決ハッピーどものムーブそのものじゃないでしょうか。
そういうやつらがバカに見えるんなら、自分が正にそれをやるの、最悪やんけ。
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問題解決ハッピーどもの問題の所在は
「人のニーズを見もせず確認もせず、人の話を自分のニーズに誤誘導すること」
というところにあるんじゃないでしょうか。
というか、私はここで一番煮え湯を飲まされてきた側です。
脳に刺さっている俗流の解釈を離れ、どこでムカつくかだけを冷静に洗い出すと、どうやらここが一番悪いようなのです。
2.困っている時は、コストをかけたくないし、リソースを割きたくない。これはコストをかけてリソースを割く問題解決が忌避される理由になりうる
俗流の話だと
「基本的に愚痴を聞くのが正しく、問題解決は邪悪である。
ここで、前提条件は曖昧にされており、実際には上の仮定は成り立たないことがある。
ここが読めないやつは、ノー会話での仕草から意図が読めないバカ扱いしてよいのであり、だから依然として前提条件は明示せずとも構わない。
そこにコストをかけるべき? そんなリソースがないから雑にやってるんだ。
だから、コストのかかる、リソースを食われる問題解決、やりたくねえんだよ。
分かってねえな」
という話になりがちです。
***
平たく言うと、
「言わなきゃ分からんのか」
というやつです。
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それそのものはある程度正しいところもあるのです。
が、諸手挙げて受け入れられる話ではありません。というか、受け入れられない部分の方が多いくらいだ。
あのう、これ、意外に思われるかも知れませんが、これ、本当に「悪い」ですよ。
3.自分が苦しんでいようが、相手に横柄な態度を取ると、相手の心証は極めて悪くなる。相手は自分の都合に応じて動く駒ではないからだ
上の話、「こちらは明示しないが、そちらはなおも読み解け」というのを、かなり避けがたく含みます。
(「言わなきゃ分かんないのか」ということは、日頃からそういう読解クイズをしているということだし、それではおそらくそれまでのコミュニケーションも足りているとは到底信じがたい。
何より、この読解クイズの出題者は、正誤と生殺の与奪の権を壟断する査定権力者であり、また相手の選択肢を制限して自由意志を以て規律に従わせるタイプの命令者に他ならない。
「間違えたら制裁のリスクがある」のだから、「命の危機に晒されている」状態、詰みの数歩手前だ)
きちんと明示されたら、誤読の可能性はかなり低くなる。
逆に、明示されないので、状況証拠から解釈を余儀なくされるの、誤読の可能性は高くなるに決まってるだろう。
それ、解釈する側も困るが、それ以上に、誤読される側は、とてつもなく困りますよ。
ニーズに合わないことをされる可能性が爆上がりするんだから。
そしてそれはなぜかと言うと、自分がニーズをちゃんと伝えていないからだ。
自分がそういう横着なことをしていて、それで誤読されたら、そりゃあ嫌でしょうが、誤読されるの、ごく当たり前のことだと言える。
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「何で分かってもらえないんだ。
分かってもらえるように喋るコストは割きたくないし、誤読を避ける努力をしたくない。
そもそもコストを割きたくないくらいリソースが足りないのだ。分からんのか。繰り返すが、説明はしない。その上で察しろ。
自分は、曖昧模糊とした問題状況下で、楽になるようにしてもらいたいのだ。それ以外何も望んでいない。
だが、そういうニーズは、意識すらしていないし、口にすらしていない。
そもそも、言語化自体、もう疲れるのだ。疲れてるのに何故そのようなことをせねばならないのか?」
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じゃあ誤読は喰らうしかありまへんな。
説明しとらんのやから。
そこが都合よく行くと思うの、自分の都合の良さと、その通りに動かない他人の区別が、ついてないんじゃないのでしょうか。
それでやれる社交も処世も、共通の話題や感性で省略された、劣悪なコミュニケーションに過ぎない。
そういうコミュニケーション、明らかに楽だが、そもそもの事柄が楽じゃない案件では、これはとにかく向かない。
やめましょう。
***
状況証拠から誤読を避けて読解する努力は、もちろん価値がありますし、「共通の話題や感性で省略されたコミュニケーション」においては、省略に効くので、特に価値がある。
だが、「問題はあるが、明示しないんで、お前が読み解け」というの、あまりにも横柄が過ぎる。
横柄な態度で「話を聞け話を」じゃあないんだよな。
そういうの、一般に、メチャクチャ嫌われますよ。
4.この世の中に、「伝えなくても共通で持っていて当たり前である知識」、万人に共通の常識などというものは、存在しない
この世の中に、「伝えなくても共通で持っていて当たり前である知識」、万人に共通の常識などというものは、存在しない。
「食わせなかったら死ぬ」「荒れ地に放り出せば死ぬ」「人を超える脅威の最中に放り出せば死ぬ」「深手を負わせれば死ぬ」「殺せば死ぬ」
これらすら常識ではない。
(上記の話を見て、残念ながら、なおも「何言ってんだ死ぬ訳ないだろ」という人、たくさんいるだろう。
特に管理職は、上記の話を一律理解出来なくなって、個を犠牲に場を維持して大業を為すことに、かなり強い利益と動機がある。
というと、ピンと来る人、結構いるのではないでしょうか)
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伝えなければダメだ。という絶望と不信と覚悟の元に、多くのいい大人はコミュニケーションを行っている。
もちろん、ちゃんと伝わるように。
そして、ある程度は、干されず逐われず刺されず殺されないために。
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それを、しましょう。
5.愚痴で本当に求められる(ものを探り当てるための)問題解決
だとしたら、愚痴で本当に求められる(というか、本当に求められているものを探り当てるための)問題解決とは、以下のようにならざるを得ないでしょう。
5_1.「人のニーズをまずは絶対に否定せず、自分の認知的な安易な落としどころに誤誘導もせず、それがどんなに他者危害的な害毒に満ち溢れていようが、刑法で問えない限り、まず受け入れる」
愚痴とはそういうものですし、その上で受け入れねばなりません。
「キレイゴトでないニーズは、存在しない方がよいから、存在してはならないから、存在しないものとする」
という態度、まあ「は? 殺すぞ」と返されてもしょうがないんじゃないかな。
刑法案件だったら? そりゃあ、そんなことをしながら愚痴るやつ、テキパキ警察に連絡していくしかないでしょう。家族だろうが上司だろうが顧客だろうが全部同じ。
5_2.「相手が不満を喋って言語化出来て相手が楽になったら、それでその不満の問題は解決したのである。これ以上何もしない」
ここで自分がこれ以上何かしたら、それは問題解決した状況を否定することにしかならないし、この状況を良しとした相手は否定されたということになる。
これは途轍もなく不愉快なことである。
そんなことをしやがったやつの言う事なんか、余程の暴力や権力を背景にしない限り、聞き入れられる訳がないのです。
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逆に、これが通ったら、それは暴力や権力を背景にしている可能性がかなり高いし、もしそうだったら自分は暴力側か権力側である。
何なら、いつか法務行政公僕や弁護士を伴った相手に、破滅レベルまで報復される。
訴訟も、その封殺に失敗した特大こじれ訴訟も、本当に生活をドブの味にするほどクソ面倒臭い。
楽のために人を働かせて、時々真面目に管理して(シメて)いたら、こうなる訳だ。(だが、まあ、そりゃあそうだろう)
およそ割りに合わないことになる。気を付けましょう。
5_3.「問題解決のコストは基本言い出しっぺが持つし、相手が拒絶するなら断念しなければならない。そのニーズや意志を否定してまでやる問題解決には、一般に猛烈に低い価値しか認められない」
そこに、問題が転がっていて、外形的に見る限り解決しなければならない性質のものだし、解決可能なのであれば、解決するかどうかは本人とご相談、合意、納得尽くの上でやるべきことである。
本人が乗り気でないのに外野が問題解決したいのであるから、コストは基本言い出しっぺが持たなければならない。
それが本人が頑強に拒絶するのなら、それは解決を断念すべきところだ。そこで解決するということは、本人のニーズや意志を否定したことにしかならないからだ。
そうしてまでやる問題解決には、当然ながら一般に猛烈に低い価値しか、相手から認めてもらえないであろう。
だって、そらそうよ。相手が喜ぶ訳がないもんな。である以上、相手からの評価や査定、高い訳がないわな。
(何らかの医療行政や福祉行政のプログラムで、強制力を伴おうが保護すべき案件なら(しばしばそうである)、適正な行政機関に投げましょう)
6.とにかく、相手のニーズとその充足が大事なのであって、問題も解決も結果も成果も、そのプロセスの一環に過ぎない。というパラダイムシフトを受け入れる
とにかく、相手のニーズとその充足が大事なのだ。
問題も解決も結果も成果も、そのプロセスの一環に過ぎない。
これはとんでもない、場合によっては極めて侮辱的ですらある、価値観のパラダイムシフトでしょう。
(価値観のパラダイムシフトは、たいてい侮辱的なものです。
「お前の行動指針、傍流。ごみ」
と言ってるんだから)
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ですが、これを受け入れるしかありません。
顧客が要らない商品は売れないのだし、上司が査定を付けない成果は評価されないのだ。
高品質のモノだけ溢れさせると嬉しいの、そういう教義の文化に過ぎないし、そういう文化のない相手にやると、かなりまずいことになりますよ。
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低副作用抗がん剤の要る人に、ダイアモンドの指輪を渡すの、かなり強烈な憎悪をもたらすでしょう。
その人は治したいのであって、質屋に行きたい訳じゃあないんだし、
「頭がおよろしくないのか? 質屋に行くという発想すらないのか?」
などとまで言われたら、ダイアモンドの指輪をハメて、言ったやつを殴っても、まあしょうがないかな。
そういうことです。
カテゴリーエラーの高品質のモノは、しばしば恐るべき不快感をもたらすのです。
高品質のモノを量産して、「成果でござい」じゃあないんだよ。
7.それでも問題や解決や結果や成果はおおごとである。「全部私がケツモチして片付けるが、それでよろしいか」と確認だけ取って、バックグラウンドで片付けましょう
もちろん、問題や解決や結果や成果は、ニーズや充足のためのプロセスの一環であり、それらは充足に向けて実際に機能しているべきであり、そういう意味ではおおごとである。
でも、相手がそれらプロセスに興味があるとは限らない。
というか、通常、興味がない。
(自分のニーズが充足してないのに、目の前にニーズと合わないごみをドンと置かれて、これを創ったやつから滔々と自慢話されたとしたら、そんなもん何一つ嬉しくなんかないわな)
***
「問題や解決や結果や成果をどうしても片付けたい、そうしないと何事も進まない」と思っている側はいる。
これはその通りだ。現実にそれらは充足に向けて機能しているべきであり、そうでなかったらそれの充足は非常に確率の低いタナボタか、極めて勝率の低いバクチになる。
だったら、もし相手がニーズと充足にしか興味がないならば(さっきも書いたように、こんなの当たり前だ)、
「あなたのニーズは何ですか」
「これは充足のために必要なプロセスであるとご理解戴きたい」
「全部私がケツモチして片付けるが、それで宜しいか」
と確認だけ取って、バックグラウンドで片付けましょう。
もちろん、最後には責任を持って成果をもたらさなければならないし、
その成果を相手に見せねばならないし、
どう評価に値するか説明(プレゼンテーション)しなければならないし、
相手が充足されたかは見届けねばならないし、
その上で査定を甘んじて受け入れねばならない。
8.仕事は仕事だけで完結していない。査定という外部を伴うし、それが伴ってこそ真のフルセットの仕事に近付く
仕事は仕事だけで完結していない。
査定という外部を伴う。
仕事は、査定が伴ってこそ、真のフルセットの仕事に近付く。
そういう認識で、仕事への働きかけと、仕事の査定への働きかけの、両方を頑張っていきましょう。
***
ニーズと充足を達成したら、査定は上がります。
逆に、それらを蹂躙しておいてから、まるでニーズも充足も関係のないような、そういう仕事の成果を相手にお出ししたら、それは大事な成果を初手で肥溜めに叩き込んでいるようなものです。
査定? 下がるに決まってる。
***
ニーズと充足は必ず確認しましょう。
それらの蹂躙、やめましょう。
(いじょうです)