真覚久美子

スペイン在住、ベテラン撮影コーディネーターが好きな人と行く、気ままな旅日記。何が起きるか!? 食 花 アーツ&クラフト 音楽 建築

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  • 旅日記 スペイン編

    スペイン在住、ベテラン撮影コーディネーターが好きな人と行く、気ままな旅日記 スペイン編

最近の記事

昭和40年代の東京下町歳時記 12月

師走:普段落ち着いている僧侶でさえ走り回るくらい忙しい月。子供たちも色々と家の手伝いをする。大掃除は一大イベント。小学校の家庭科の授業で使い古した浴衣やタオルを運針で縫って雑巾にするのを習ったが、あれはどうも日本特有の事らしい。思えば日本の着物ほどリサイクルされる物はなかったのではないだろうか。SDGsの影響か、今欧米で刺し子が流行っているのも面白い。 障子、ふすまの張替え、畳替え、布団の打ち直しというのもあった。布団屋さんから帰ってくると、布団はふわふわして気持ちよかった

    • 昭和40年代の東京下町歳時記 11月

      11月は七五三。私が3歳の時にはまだ妹は生まれていなかった。着物を着せてもらい、祖母も来て、亀戸天神で七五三をした。千歳飴の袋が長くて大変だった記憶がある。お参りから戻り、ご近所に千歳飴を配りに歩いた。7歳の時は妹も3歳で一緒に七五三をした。私は4kg以上と大きく生まれたが、妹は未熟児でしばらくは病院の保育器に入っていて、母は毎日病院に行っていたので、私は4歳でお姉ちゃんだから何でも自分でするようにと言われた。そして1歳の時に歩行器に乗った妹は、階段から歩行器ごと転がり落ち、

      • 昭和40年代の東京下町歳時記 10月

        10月になるとすっかり秋めいてくる。土手には赤トンボ、オニヤンマ、シオカラトンボ、糸トンボなどがいた。一度赤とんぼを一匹捕まえて糸で結んで、それを土手で飛ばしたら、仲間が沢山寄ってきて驚いた。とまっているトンボは、羽が垂直よりも下がっている状態のものを、後ろからそっと近寄って網で採ると比較的成功した。トンボ採りも楽しい遊びだった。 街には時々石焼き芋屋さんが来た。「いしやきーいも、やきいも」という声と共に。大概は軽トラックで荷台の部分に石焼き芋の窯のようなものを乗せていて、

        • 昭和40年代の東京下町歳時記 9月

          夏休みも終わり、新学期。9月の終わりか10月に小学校では運動会と学習発表会があり、私のいた音楽クラブは運動会の鼓笛隊と、発表会の練習で忙しくなる。鼓笛隊は小太鼓、大太鼓、鉄琴や笛などを演奏しながらフォーメーションを組んでやるもので、卒業アルバムを見る限り100人以上の生徒が参加していたから、合わせるのもなかなか大変だったと思う。当時のビデオが見てみたい。音楽のH先生の厳しい指導のお蔭で音楽クラブもレベルが高く、木琴、鉄琴、バス木琴、ビブラフォン、アコーディオン、ピアニカ、エレ

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        • 旅日記 スペイン編
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          昭和40年代の東京下町歳時記 8月

          子供部屋の窓の外に父が作ったプランターがあり、毎年4月に朝顔の種を蒔いて、水をやるのは私の仕事だった。段々育って行って、夏になり毎朝雨戸を開けて何個花が咲いたか見るのは楽しかった。今思えば日よけにもなって一挙両得。大人になってスペインでも朝顔はよく育てた。毎年新しい品種が出てきて、色んな色の朝顔が出て、確か流行もあったと思う。 夏休みの朝は毎日カードを首からかけて、近くの広場にラジオ体操に行って、ハンコウを押してもらった。最後の日には確か缶ジュースとお菓子をもらった。田舎に

          昭和40年代の東京下町歳時記 8月

          昭和40年代の東京下町歳時記 7月

          七夕が近くなると近所の人から笹をもらって、色んな飾りをつけて飾った。短冊には願い事を書く。一体あの頃何を書いたのかな?見てみたい。 夏はよく蝉を取りに行った。声が聞こえたらそーっと木に近づいて、どこに止まっているか探して、網で捕まえるのだが、楽しかった。捕まえては最後に何匹捕ったか皆で数えて放した。アブラゼミ、ミンミン蝉、ヒグラシ、ツクツクボウシがよくいて、声で聴き分けた。 声で聴き分けると言えば、虫売りも来た。鈴虫、 マツムシ、キリギリス等が小さな虫籠に入っていて、その

          昭和40年代の東京下町歳時記 7月

          友人を訪ねて ドイツ ケルン 5日目

          朝Eさんが、ガーデンセンターで朝食を食べましょう、と誘ってくれた。支度をしていると、Lが引っ越し荷物を抱えて、電車とバスで女子寮に行こうとしていたので、送ってから行くことになったと言う。優しい。 Eさんは86歳だが、2年前にご主人の記憶が突然失くなることがあり、運転できなくなったので、また運転することにしたそうだ。ドイツもスペインも運転の年齢制限は無いが、スペインでは65歳以上は免許更新期間が通常の10年から徐々に短くなっていって、反射神経等のテストが加わっていくが、ドイツ

          友人を訪ねて ドイツ ケルン 5日目

          友人を訪ねて ドイツ ケルン 4日目

          今日はデュッセルドルフに住んでいる日本人友人夫妻が12時に来る。彼らは3年前まで転勤でマラガに在住していた私のテニス仲間。Eさんとはマラガ、ドイツと交流が続いている。天気も良く、ドライブに行く予定なので、朝のうちにキッチンの食器を梱包していく。繊細で、きれいな和食器が沢山ある。Eさんはよくお客様をもてなしたそうだ。60年連れ添って、介護をしなくてはいけなくても、まだ生きていて欲しかったと言う。本当に仲の良いご夫妻だった。 バートミュンスターアイフェルは、ケルンから車で一時間

          友人を訪ねて ドイツ ケルン 4日目

          友人を訪ねて ドイツケルン 3日目

          土曜日なので今日は娘さん達が荷物の運び出しをするそうだ。2度に渡って荷物が運び出され家が大分スッキリした。こういう時に大家族はとても頼りになる。 家に掃除機をかける。棚はほぼ空になり、売りたい家具の写真を撮り直し、いろんな方達に送る。何か売れると良いのだが。 昼近くに彼女の友人のIさんが来る。長い間一時帰国をしていて、お葬式に来られなかったそうで、御香典代わりに日本のお土産を沢山持ってきてくれた。そして忙しい彼女のために、ちらし寿司を持参してくれた。ありがたい。早速大根サ

          友人を訪ねて ドイツケルン 3日目

          友人を訪ねて ドイツ ケルン 2日目

          朝食後 to doリストを作り、少しずつこなして行く。この際だから断捨離をお勧めしたが、気力がなくて選べないので、全てを持っていくことにして、引っ越して元気になったら少しずつ片付けるそうだ。それも大変だが、仕方ない。 ケルンには雅の会と言う日本人会があり、月に一度会食を天晴と言う店でしていて、昨日お誘いの電話があり、2人で出掛けることにした。12:30-15:00迄の都合のつく時間に参加して各々好きな物を頼みお喋りをすると言うフランクな会。しかし出掛けに床間を家に作ったので

          友人を訪ねて ドイツ ケルン 2日目

          友人を訪ねて ドイツ ケルン

          以前ミハスに住んでいて、ドイツに引き上げた友人夫妻のドイツ人のご主人が8月に急に亡くなられ、日本人の85歳のEさんは、今月で家を片付けて娘の家族と一緒に住むことになった。問題は大きくて立派な家具や私物をどう処理するかだ。伺えばご主人の事はまさかの展開で、悲しみも束の間。何とかするしかない。と言う訳で4日ほどだがお手伝いと話し相手に、ケルンに行くことにした。 ケルンには以前から遊びに行きたかったが、COVIDで伸び々になっていた。やはりドイツで結婚式をするはずのカップルもCO

          友人を訪ねて ドイツ ケルン

          昭和40年代の東京下町歳時記 6月

          雨が降ると外遊びはできないので必然的に家で遊ぶ。うちではトランプや花札もやっていた。ボードゲームはモノポリ。こういう時のおやつは自分で作るポップコーンか、かっぱえびせん。父の友人にプラモデルの工場をやっている人があり、よくプラモデルをもらって来てくれて、私は結構はまっていた。思えば人形遊びには興味がなく、リカちゃん人形の代わりに鉄人二十八号の大きなロボットを買ってもらったりしていた。ぬいぐるみ工場をやっている人もいて、1mぐらいある大きな犬のぬいぐるみが子供部屋にはあった。あ

          昭和40年代の東京下町歳時記 6月

          昭和40年代の東京下町歳時記 5月

          5月は亀戸天神の藤棚。この神社は梅の花も有名だし、私達の七五三もこの神社。よくお参りした。そして亀戸天神と言えば、船橋屋のくず餅。きなこと黒蜜が合わさって、余り甘いものが好きでない私もこれは好物だった。 「江戸っ子と言えば初鰹。タタキもよいが、やはり刺身。」と池上さんが書かれているのを読んで、やはり、と思ったのは、大人になって始めて鰹をニンニクで食べて驚いたからだ。鰹はおろししょうがで食べるものと思っていたが、やはりそうだった。私が子供の頃家でニンニクを使った料理は食べたこ

          昭和40年代の東京下町歳時記 5月

          昭和40年代の東京下町歳時記 4月

          家で食べていた東京の郷土料理とは何だろう?  あさりのむき身で作る深川めし、うちでは炊いて作っていた。母はぬたも良く作っていた。春になると八百屋の店先には大きな入れ物に生きたどじょうが売られていた。うちでは作らなかったが、大人になってから母が駒形どぜうに行きたがり、その時に父があまり好きではなかったので家では作らなかったが、母はどじょう鍋が好きだったと聞いた。祖母は糖尿病だったので伯母の監視下から時々抜け出して、時々うちにやって来た。駅からタクシーを拾い、途中でうなぎ屋で出

          昭和40年代の東京下町歳時記 4月

          昭和40年代の東京下町歳時記 3月

          3月3日はひな祭り。この日はちらし寿司とハマグリのおすまし。食べ物の記憶は鮮明なのに、うちのお雛様がどんなだったか、全然思い出せない。(-_-;) うちの隣のSちゃんの家は釣り船屋。Sちゃんは私と妹と2歳違いで一人っ子だったので、私達三人はよく一緒に過ごしていた。時々おばさんが窓越しに「Sや、家がどこだか忘れたの?」と帰宅を促していた。(笑) 川に釣り船を停泊していて、Sちゃんのおじいちゃんとお父さんが釣り人達を乗せて季節の魚を釣りに行くのだが、春は潮干狩りに、今はディズ

          昭和40年代の東京下町歳時記 3月

          昭和40年代の東京下町歳時記 2月

          二月 節分。神社では年男、年女が豆を撒いた。家では夜仕事を終えた父と共に、寒いのに家中の窓と扉を開け、大きな声で「鬼は外、福は内」と皆で言いながら、家の中には少し、外には勢いよく豆を撒き、年の分だけ豆を食べた。メザシに柊の厄除けの飾りを飾る家もあった。 池上さんは小鍋だてについて書いている。父は酒のあてに鱈の入った湯豆腐や、小柱の小鍋だてを食べていたような気がするが、子供達は小鍋といえば、鍋焼きうどん。熱々を小鉢に取り分けてレンゲで冷ましながら食べたものだ。冬は綿入れを作っ

          昭和40年代の東京下町歳時記 2月