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昭和40年代の東京下町歳時記 2月

二月
節分。神社では年男、年女が豆を撒いた。家では夜仕事を終えた父と共に、寒いのに家中の窓と扉を開け、大きな声で「鬼は外、福は内」と皆で言いながら、家の中には少し、外には勢いよく豆を撒き、年の分だけ豆を食べた。メザシに柊の厄除けの飾りを飾る家もあった。

池上さんは小鍋だてについて書いている。父は酒のあてに鱈の入った湯豆腐や、小柱の小鍋だてを食べていたような気がするが、子供達は小鍋といえば、鍋焼きうどん。熱々を小鉢に取り分けてレンゲで冷ましながら食べたものだ。冬は綿入れを作ってもらって、それを着て食べると途中で熱くなって脱いでいく。風邪をひいたりすると小鍋でおかゆを炊いてくれた。小鍋だては冬簡単にできる便利なので、私もよく作る。

こたつの上にはみかん。私は大好きだった。「手のひらが黄色くなるまで食べていたよね」とYちゃんが覚えていた。(笑)

よし甚では蟹尽くし。私は蟹味噌が好きなので茹でた毛蟹が好物、母と妹はタラバが好きだったと言う。酢の物や揚物等もでて、締めは蟹雑炊だった。父は冬になると時々ヒレ酒を大きな湯呑みで飲んでいた。ふぐのヒレを乾燥したものをさっと炙って熱燗を注ぎ、蓋をして少し待つ。大人になって飲んでみたらとてもおいしくて、一度飲み過ぎて、鮨屋のカウンターの高椅子から降りる時に膝が立たずに驚いたことがある。(汗)

炙るといえば、酒のあてによく色んな物を炙っていた。めざしやスルメ等は子供達も食べた。私が好きだったのはタタミイワシ。これは祖母の好物でもあったと思う。焦がさないように上手に炙ると、香ばしい香りとパリパリとした食感が美味。

昔は海苔は表を合わせて毎朝2枚炙ったものだった。(つるつるの方が表)こうすると香りが良くなる。炙ったら折って切って、塗の蓋付きの海苔入れに入れていた。昔は東京湾や千葉で採れたおいしい海苔があった。稲毛の祖母の家の表通りにお茶屋さんがあって、うちはいつもここで海苔を買っていた。ある日コルドバに住むKさんの家で食べた海苔がおいしかったので聞いたら、なんとお父さんは浦安の辺りで海苔職人、引退後も知り合いから買っている地元の海苔だそうだ。味覚の記憶。

こういったものは乾物屋や魚屋で買ったり、大きな籠を背負った行商のおばさんたちが千葉からよく各家庭に売りに来た。私は行商人が来ると楽しくて、母の横でよく見ていたものだ。おばさん達は自分が作った物を他の人の物と移動中の総武線の電車の中で取り替えたりして、結構な品数の品物を持っていた。佃煮や煮豆、ピーナッツの甘辛い物や、漬物等の副菜から、海苔や干物、落花生や干し柿や干し芋もあったと思う。懐かしい。
私はこんな生活をしていたせいか、今ではスペインで鰯や鰺、鯖などの青魚を買っては開いて一夜干しにして、時々炙って食べている。アルプハラには渋柿の木が沢山あったので、干し柿を作ってチーズと食べていた。息子の話ではミシュランの星付きレストランのデザートに干し柿が出て来たそうで、今日地球の反対側で、ほおずきの実や干し柿が高級な果物として扱われているのは面白い。


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