昭和40年代の東京下町歳時記 6月
雨が降ると外遊びはできないので必然的に家で遊ぶ。うちではトランプや花札もやっていた。ボードゲームはモノポリ。こういう時のおやつは自分で作るポップコーンか、かっぱえびせん。父の友人にプラモデルの工場をやっている人があり、よくプラモデルをもらって来てくれて、私は結構はまっていた。思えば人形遊びには興味がなく、リカちゃん人形の代わりに鉄人二十八号の大きなロボットを買ってもらったりしていた。ぬいぐるみ工場をやっている人もいて、1mぐらいある大きな犬のぬいぐるみが子供部屋にはあった。あの頃下町には色んな工場があった。
髪はショートカット、赤やピンクの女の子らしい洋服が嫌いで、半ズボンであちこち飛び回り、おばには「赤チンのくんちゃん」と呼ばれるほど生傷が絶えず、痩せていてよく日に焼けていて「元気な坊っちゃんで」と父が言われた事もある幼少期だった。
昆虫採集やザリガニ釣りは本当によくした。この時期は雨蛙をとってきて、家で飼ったことがある。小さくて緑色の蛙はかわいい。他にはカタツムリやバッタに蝉、蟹にザリガニをとってきては家にしばらく置いた。バッタは色んな種類がいて、トノサマバッタなど大きなものもいた。特に梅雨の後に土手で雑草を刈る人が来たら、その後をついて歩くと沢山の虫が飛んで出てきて、「危ない」と注意されながらも皆でついて行った。
ザリガニは始めに誰かが買った酢イカのはぎれで一匹釣って、それを殻をむいて小さくちぎって皆で分けて釣った。おたまじゃくしが蛙になるのや、アリの巣を観察したこともある。金魚も飼った。金魚は父が大きな水槽を買って、一緒に世話をした。江戸川区は金魚の養殖が盛んで、大きな金魚屋さんに行った記憶がある。祖母の家の裏にも金魚の水槽が並んでいてよく見に言った覚えがある。夏が近くなると金魚売りが来た。「きんぎょーえ、きんぎょっ」という声が聞こえると買わなくても見に行った。金魚は今も大好きだ。
犬は一度飼ったが、家の前の土手の所につないでいたら、大きな穴を掘ってしまい、区役所の人に注意されて飼えなくなり、ケンは父の友人にもらわれてしまった。仕方がないので隣のコロを可愛がって、よく散歩に連れて行ったし、肉屋で骨をもらってあげたりした。母は猫が怖く、通りの遠くで猫が横切っただけでも騒いでいたので、家では飼ってもらえなかった。しかし私が大人になった頃には私の留守の間、飼っていた猫を預けられるようになった。以来私が飼うのはいつも猫。猫の自由さが好きだ。村上春樹さんの最強のモットーは、「人は人、我は我、猫は猫」。全く同感。
母は時々デパートに買い物に行き、私はお供をした。日本橋三越本店、高島屋に大丸あたりだった。私の楽しみは、確か高島屋の食堂のチキンバスケット。バスケットにフライドチキン、スティック野菜、ロールパンなどが入っていて、おしゃれな物。冬になると時々ドリアを頼んだ。おやつは甘味処で母と私はところてんが好きだった。家でも夏になると、ところてんを作って、木でできた天突と呼ばれる道具でスルっと押し出すのだが、この穴の大きさに合うように目分量で包丁でところてんを切るのはなかなかむずかしい。酢醤油に溶きからし。
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