昭和40年代の東京下町歳時記 4月
家で食べていた東京の郷土料理とは何だろう?
あさりのむき身で作る深川めし、うちでは炊いて作っていた。母はぬたも良く作っていた。春になると八百屋の店先には大きな入れ物に生きたどじょうが売られていた。うちでは作らなかったが、大人になってから母が駒形どぜうに行きたがり、その時に父があまり好きではなかったので家では作らなかったが、母はどじょう鍋が好きだったと聞いた。祖母は糖尿病だったので伯母の監視下から時々抜け出して、時々うちにやって来た。駅からタクシーを拾い、途中でうなぎ屋で出前を依頼し、うちに来る。小学校から帰って祖母の草履を玄関で見つけると、とてもうれしかった。祖母は生涯を着物で通し、髪をいつも結っていた。
うなぎは私も大好物。私はおばぁちゃん子だったし、祖母が来ると母はごちそうを作るので、それも合わせて楽しみだったのだろう。
寿司はカウンターで各自がお好みで食べるものだった。妹が大人になって始めて寿司は桶に入った一人前をテーブル席で頼むのが普通と知って驚いたと言っていた。私も生まれて初めて回転ずしに行った時は驚いた。
私はご飯が好きではなかったので、まず焼き物で何があるか聞いて、大概はぶりのかまを塩焼きにしてもらう間、つまみでこはだや赤貝、青柳やしめ鯖などを食べ、旬の魚の刺身も少し切ってもらって、焼き魚を食べ、最後に厚切りにした卵焼きに小さく握ったご飯を上に乗せて、のりの帯をつけたものや、手巻でネギトロや、たくあんを細く切ってごまと巻いたものなどを食べていた。呑べいが好きそうなものばかり食べるので、寿司屋の大将に「お嬢さんは大きくなられたらお酒がいけそうで楽しみですね」と言われて父はニコニコしていた。母は全く飲めなかったので楽しみだったのだろう。大人になってから父とあの寿司屋に行きたかった。
寿司屋に行くともう一つの楽しみがある。父たちはゆっくりしているので、その間にお金をもらって、妹と二人で隣の果物屋に行き、予算内で好きなものを買ってよいのだ。食べたいものを見比べて暗算で計算しながら組み合わせを考える。楽しい時間。駅前の果物屋には普段八百屋で母親が買うのとは違う果物が色々あった。そして今回調べて分かったのだが、昭和46年日本で製造販売スタートになった、レディボーデンのアイスクリームが売っていた。私は特にアプリコットブランデーが大好きで、これを買えるのはこの時だけだったから、とてもうれしかった。
日曜日はお好み焼きの日。父が知り合いに特注した厚めでふちと取っ手がついた鉄板をガスの一口コンロにのせて、準備。母が大皿に具を揃えてくれる。豚引き肉、干しエビ、切りイカ、揚げ玉、もやし、きゃべつ、ねぎなど。各自が自分の器に好きなものを好きなだけ入れて、好きなように焼いて食べる=お好み焼き。私は粉を溶いたものに醤油をまぜて香ばしく焼くのが好きだった。
途中でお好み焼きは休憩して、焼きそばを焼いてみんなで分ける。この日だけは酒屋で頼む三矢サイダーを飲めることになっていた。そしてデザートに時々皮だけを薄く焼いて、あんこ巻や杏子の煮たものを巻いて食べた。お好み焼きにはよく隣のSちゃんも参加していたと思う。父はゴルフなどに出かけていた。うちの辺りではもんじゃが駄菓子屋ではやっていなかったし、高校に行くまでお好み焼きを店で食べたことは無かったしで、もんじゃを知らなくて、他の街の下町の友達に不思議がられた。
4月は私と妹の誕生月。小学生の頃はまだケーキ屋さんもあまりなくて、不二家のペコちゃんのいちごショートケーキを買ってもらった。学校や近所の友達を呼んで家で誕生会をした。皆でお菓子やサンドイッチを食べて遊んだ。
残念ながらうちには当時の記録が何も残っていない。当時父が一眼レフや映写機も使っていたのに、無くなってしまったのは残念だ。写真や映像があればもっと思い出せることがあっただろう。