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昭和40年代の東京下町歳時記 11月

11月は七五三。私が3歳の時にはまだ妹は生まれていなかった。着物を着せてもらい、祖母も来て、亀戸天神で七五三をした。千歳飴の袋が長くて大変だった記憶がある。お参りから戻り、ご近所に千歳飴を配りに歩いた。7歳の時は妹も3歳で一緒に七五三をした。私は4kg以上と大きく生まれたが、妹は未熟児でしばらくは病院の保育器に入っていて、母は毎日病院に行っていたので、私は4歳でお姉ちゃんだから何でも自分でするようにと言われた。そして1歳の時に歩行器に乗った妹は、階段から歩行器ごと転がり落ち、また入院。そんな訳で妹は寝かされていることが多かったので、小さいときには頭の後ろが絶壁だった。(笑) そして七五三を無事に祝えたことは、家族にとってとてもうれしいことだったと思う。

東京の紅葉と言えば、銀杏だと思う。現に東京のシンボルは銀杏の葉だ。それなのに東京の銀杏並木の木が大量に伐採されてしまうなんて、信じられない。

11月になると日が暮れるのも早い。気が付くと暗くなっていることもよくあって、近所の大人達に、「早く帰りなさい」と言われた。あの当時の下町では大人たちはすごくよく他所の家の子供たちの行動を遠目に見ていたと思う。母が私たちの行方を近所の人に聞けば、大概はどのあたりで見たとか、誰々と一緒にいたとか、手がかりを教えてくれる。

父は寒くなるとよくドラム缶で焚き木をしていた。皆で暖を取る。今でも火を眺めるのは好きだ。

夜になると夜泣きそばのチャルメラの音が聞こえた。食べたことは無いけれど、あの音は懐かしい。私は高校生になるまで外でラーメンや蕎麦を食べたことがなかったので、ラーメン屋や蕎麦屋に友人たちと行って品書きの名前が何か分からなかった。(笑)

家で食べたのはきっと蕎麦屋の出前のラーメン。これは醤油味だが出汁で作ったさっぱりしたものだ。うちでは蕎麦は出前で食べるもので、昔は自転車で、せいろを片手で持って配達する人を、ドリフのコント以外でもその辺でよく見かけた。おかもちで来る出前持ちもあった。よく頼んだのはカレー南蛮とざる。ざるを頼んでてんぷらは母親が揚げていた。家で作るラーメンは野菜たっぷりのタンメンだった。これは生めんを専門に売る店があり、良く買いに行かされた。ラーメン、焼きそば、そば、うどんなど。固焼きそばというのもあって、野菜炒めのあんかけをかけて食べる。この固焼きそばや、醤油味の焼きめしは下町の味だと思う。そんなせいか、どうも脂っこいラーメンは苦手。蕎麦屋は当時あちこちにあって、よく軒先で出汁をとった後の赤くて厚い鰹節を干していた。よく猫に狙われなかったものだ。

屋台のおでん屋さんもいた。おでん種の専門店もあって、おでんは元より、練り物は炙ってご飯のおかずとしても良く食べていた。私はもやしの入ったさつま揚げが好きだった。シュウマイ入りなんていうのもあった。今でも練り物は大好きだ。調べてみたら東京おでんだねという専門サイトがあって、すごく詳しく載っている。江戸時代から沢山あった専門店もここ50年で1/7に減ったそうだ。逆に考えると昭和40年代には沢山あったという事だ。 

家には四角くて四つに分けられる仕切りと木蓋のついたおでん鍋があって、良くおでんをした。さつま揚げ、ごぼう巻、イカボール、はんぺん、ちくわぶ、つみれ、こんにゃく、大根、昆布、がんもどき、卵辺りがベースだろう。煮えてくると具が汁を吸って膨らむので、2つの鍋で作っていた。おでんの日は茶飯を炊いて、いつもセットだった。おでん種は店によって特徴があるが、江戸川区の窯元のすじ(牛筋ではなく魚の練り物)、小岩の明治創業の老舗、蒲清の黒っぽくてごつごつしたおでん種の写真には見覚えがある。食べ物のことはよく覚えているものだ、と我ながら感心する。

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