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昭和40年代の東京下町歳時記 12月

師走:普段落ち着いている僧侶でさえ走り回るくらい忙しい月。子供たちも色々と家の手伝いをする。大掃除は一大イベント。小学校の家庭科の授業で使い古した浴衣やタオルを運針で縫って雑巾にするのを習ったが、あれはどうも日本特有の事らしい。思えば日本の着物ほどリサイクルされる物はなかったのではないだろうか。SDGsの影響か、今欧米で刺し子が流行っているのも面白い。

障子、ふすまの張替え、畳替え、布団の打ち直しというのもあった。布団屋さんから帰ってくると、布団はふわふわして気持ちよかった。概して木綿綿の布団を物干し台に干した日の夜は、お日様の匂いがするようで、とても心地よかった。うちでは掻い巻きもがわを変えて、お正月に備えた。部屋着として父はどてら、私たちは綿入れを新調してもらうのもこの時期だ。反物を見て好きなものを選んだ覚えがある。

冬至には銭湯の柚子湯に入って、お清めをする。香り高いきれいな色の柚子の沢山浮かんだ広い浴槽は、気分が晴れる。 

年末には紅白歌合戦があり、レコード大賞が発表された。当時は歌謡曲全盛期。私達小学生にも、新御三家の郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎が大人気。キャンディーズやフィンガーファイブのまねをして歌ったこともあった。そしてフィンガーファイブのLPで実は彼らがアメリカのジャクソンファイブという五人兄弟のグループの曲を沢山カバーして居ることが分かって大ショック。それから私は歌謡曲を卒業し、マイケル・ジャクソンの歌声からアメリカのモータウンに移行していった。母は越路吹雪が大好きでよく聞いていたので、私も彼女の色んな曲が懐かしい。「愛の賛歌」「ろくでなし」などの作詞家岩谷時子さんと越路さんのコンビは本当にすごかった。

冬の夜には、夜回りの「戸締り用心、火事用心。マッチ一本火事のもと」と言う掛け声と拍子木を打つ音が聞こえてきた。町内会の消防団や、街角には水が入った石の容器があったと思う。そして町内会の火消しや火事の避難訓練もあった。当時の東京のあの辺りはまだ木造住宅が多く、火事も多かった。そしてこそ泥と呼ばれる、こそこそと家に入ってわずかなものを盗んでいく人や、泥棒もあった。交番には町内の人をみんな知っているお巡りさんがいて、自転車で近所に怪しい人がいないか見回りをしていた。これも日本特有。

訓練と言えば小学校でも地震や火事の避難訓練があった。大きな地震がほとんどないここスペインでは、このような訓練はしないので、どう対処すべきか日本では子供でも知っていることを知らない。そして日本で大震災が起きた時の大人から子供まで、人々の秩序正しい冷静な行動や、暴動などが起きないことにいつも感心される。やはり訓練の賜物だろうか。

町内会の餅つきも行われた。割烹着に三角巾を頭にかぶったお母さんたちが、男性たちがついた餅を小さく丸め、黄な粉やあんこをまぶしていく。子供たちは食べたくてわくわくしながら準備を見守る。楽しい行事だった。

クリスマスが近くなると父の友人の家族と銀座のソニービルの前で待ち合わせて、毎年違うからくりのような外観を見て、ホテルのビュッフェを楽しみ、子供達はクリスマスプレゼントをもらう。始めてミスディオールのオーデコロンをもらった時は、大人の仲間入りをしたようで、とても嬉しかった。
この時期の銀座はとても賑やかで楽しかった反面、傷痍軍人が募金活動をしていたのが印象深い。

年末には街角にお飾り屋さんが出る。昔一度、しめ縄のための稲の収穫を手伝って、そういう農家があることを知ったのだが、区のFBによると、昭和初期区内では500軒の農家がしめ縄を作っていたそうだ。玄関はもとより、車にまでしめ縄やお飾りがあちこちに飾られ、お正月の近さを感じる。

日本を離れ、改めて日本人は本当に四季を大切に暮らす国民だと実感した。習慣や食べ物、飾り物に行事など、本当に四季折々。そして私が子供だった昭和40年代の東京の下町は、祖母のように着物だけで暮らす人がいたし、まだ色んなことが江戸時代から変わらずに行われていたことが、今回この歳時記を書いて改めて半世紀振りに思い出せ、それは懐かしく、書くのが楽しかった。これからもスペインで日本人らしい、平衡の取れた端正な生活を心掛けて、四季を大切に暮らしていきたい。


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