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2023年6月の記事一覧
「問い」と「答え」は決してセットではない。「問い続ける」ことの重要性。
「問いと答えはセットで存在している」そんな無意識の思い込みが、現代人の中には非常に多いなあと感じています。
言い換えると、問いを立てること自体は、たしかに大事なことなのだけれども、だからといって答えは決して焦らなくてもいいはずなのです。
にも関わらず、問いを抱いてしまった以上は、答えを獲得しないと何か宙ぶらりんのように感じがして、落ち着かないという現象が、いま多くのひとたちの心の中に間違いなく
その土地や会社の良さを判断するには、新芽や若葉を見ればいい。
昨日、今治タオルブランドであるイケウチオーガニックさんの京都ストアで開催された、「はじめてのイケウチオーガニック」というリアルイベントに参加してきました。
このイベントの参加した後の余韻みたいなものが、ものすごく心地よいものだったので、今日はその理由について少しこのVoicyの中でも考えてみたいなと思います。
そして同時に、以前から漠然と感じている「その土地の土の良さを知るためには、新芽や若葉
頭での理解を優先するのではなく、先に体感してもらうことの重要性。
他拠点生活をするひとが増え始めて、社会の中で徐々に変化し初めているなあと強く思うのは「自我」の捉え方の変化です。
「変わらない私が常に存在している」という一神教的な考え方というのは、一つの拠点に縛られているからこそ、生まれてくる概念だと思っています。
一方、多拠点生活をしているひとたちは、場によって引き出される私が全く異なることを理解し始めている。
で、こうやって自らの実体験を通して「あれ、
インターネット上の「善きつながり」を復活させたい。
最近、「顔」のある他者と継続的に向き合いながら、付き合い続けていくことの重要性についてよく考えています。
それは先日書いた以下の記事でも語った通り。
いま、ネット上でも「コミュニティ」自体に光が当たりつつあって「顔」のあるひとりひとりの他者と、フォロー・フォロワーの関係ではなく、常に立場が入れ替わるような形で対等な立場で継続的に向き合うこと、そちらに風向きがシフトしつつある。
じゃあ、これっ
最近のNFTを眺めていて感じるモヤモヤについて。
最近のNFT市場を眺めていて、モヤモヤしていることが大きくわけて2つあります。
まず1つ目は、「NFTのをガチホせず、売却する行為はお金に困っている」という一方的な決めつけと、その判断の仕方には、なんだかモヤモヤしてしまいます。
たとえ実際に蓋を開けてみたらそうであったとしても、そうじゃない可能性だって、一方では必ずあり得るはずで。
この点、近年は、自らの意見と異なるときは、黙ってその場から
「手触り感のある政治」について考える空間。
先日、Wasei Salonの中のメンバーでもある竹田ふうこさんが、北海道の浦幌町で町議選で初当選したことをきっかけに、その選挙活動を終えてみた感想をみんなで聞かせてもらうというイベントが、Wasei Salonの中で開催されました。
これは、本当にとっても良いイベントだったなあと思います。
少なくとも、僕は彼女の話を聞きながら、選挙に対するイメージが、良い意味で180度変わりました。
どう
ラブレターをおくれるひとになるためには、ちゃんと嫌な仕事を断ることが大切。
最近のWasei Salonが、また以前にも増して、なんだか賑やかになってきました。
先日、半年ぶりのリアルイベントが東京で開催されたことや、初期メンバーのおひとりでもあるライターの三浦希さんが復帰してくださって、頻繁に投稿してくれるようになったことも大きな転機となって、また一段とおもしろくなってきたように思います。
ゆえに、以前参加してくれていて今は離れてしまったメンバーの方々にも、久しぶり
素晴らしい演者と素晴らしい観客、どちらが大切なのか?
舞台において、素晴らしい演者と素晴らしい観客、どちらが大切なのか。
もちろんこの答えは、二者択一の問題ではないとは思いつつ、僕は「素晴らしい観客」のほうがこれからの時代には大切になってくるんだろうなあと思っています。
演者側が気づけば本気で演じたくなるような観客っていうのは、間違いなく存在しますからね。
そもそも、ひとつの舞台やトークイベントなど、その「世界観」というのは、演者も観客も一緒に
日本人はなぜ、過度に料理のレシピ本を追い求めるのか?
僕が日本全国旅をする中で必ず訪れるのが、旅先の本屋さんです。
全国各地の大小様々な書店に足を運ぶことが、もはや趣味の一つとなっています。
そうやって各地の書店を定点観測していると、ここ数年の大きな変化というのは、料理のレシピ本コーナーが、ドンドンと拡大していることなんですよね。
棚の数もそうですし、場所も本屋の一等地の場所に移り変わっているように思います。
東京に住んでいる方にはあまり想像
なぜ、東京のタクシーの運転手にはチップを払ってはいけないのか?
以前どこかで聞いて、ものすごく印象に残っている話があります。
どなたかは忘れたけれど、ドンドン率先して贈与をして、常にペイ・フォワードを意識していているような経営者の方が「東京の流しのタクシーの運転手には、メーターに表示された金額以上は絶対に払わない」と語られていました。
なぜなら、流しのタクシー運転手にはもう一生会わないからだ、と。
それは穴の空いたバケツにお金を投げ入れているようなもので
現代人は、マンガやアニメから世界や人生を学ぼうとしすぎだと思う。
現代は、マンガやアニメがかつてないほどに全盛期の世の中です。
大人から子どもまで、本当に老若男女問わず、みんながアニメやマンガに触れているような時代ですよね。
そして、それらの作品を自らの「バイブル」のように掲げるひとも、本当に増えてきました。
もちろん僕もご多分に漏れず、井上雄彦さんの『バガボンド』を自らの座右の書のように何度も繰り返し読んできましたし、ジブリ作品で人生の多くを学んできたの
語り得ぬものについては、考えない。その先にある自由を追い求めない。
先日、こんなツイートをしてみました。
これは「ハンマーを持つ人にはすべてが釘に見える」という話にも近いかと思います。
でも、「言語」の特殊性というのは、ハンマーのように自分が持っていることに対して自覚的になれない道具である、ということです。
そこが非常に厄介なポイントで、学問は「身に付ける」と同時に、それによって生まれる偏見に対しても、常に自覚的になる必要があるのだろうなあと。
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原理問題よりも「程度」問題で考えたい。推し活の利己的側面についての考察。
最近よく考えることは、世の中は「原理」問題で考えるよりも、「程度」問題のほうが重要だということです。
たとえば、薬と毒の違いというのも、それは何か明確な原理的な違いがあるというよりも、その物質の総量の違いで、人間にとって毒にも薬にもなるわけで、完全に程度問題ですし、発酵と腐敗の違いもまた同様です。
これは、言ってしまえば「過ぎたるは猶、及ばざるが如し」ということなんだけれども、それが今、世間の