語り得ぬものについては、考えない。その先にある自由を追い求めない。
先日、こんなツイートをしてみました。
「言語の癖は、思考の癖を導いてしまう」
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) June 16, 2023
この視点は、ちゃんと心得ておきたいこと。
日本人は「仏教」的に語られると、なぜか真理だとかロジカルだとか思いがちだけど、それは「言語の癖」から導かれる「思考の癖」でもある可能性は高い。この視点は常に忘れたくない部分。 https://t.co/FSDWtr0kKC pic.twitter.com/MjFNfCyB27
これは「ハンマーを持つ人にはすべてが釘に見える」という話にも近いかと思います。
でも、「言語」の特殊性というのは、ハンマーのように自分が持っていることに対して自覚的になれない道具である、ということです。
そこが非常に厄介なポイントで、学問は「身に付ける」と同時に、それによって生まれる偏見に対しても、常に自覚的になる必要があるのだろうなあと。
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そうすると次に気がつくのは、僕ら人間は、どうやってもその「言語の構造」の枠から逃れられないということです。
なぜなら、僕らはその日本語を使って、この世のすべての物事を考えているのだから。
最初に生み出したときは人工的な「道具」であったにも関わらず、その道具から逃れられなくなってしまったというジレンマがある。
よくよく考えると、これってめちゃくちゃ不思議ですよね。スマホをつくったら、それが手放せなくなってしまったことにもよく似ている。
まさに言語とは自らに一体化していることに気づけない「透明なスマホ」みたいな道具でもあるわけです。
僕らは、この言語を用いずに何かを考えるという営み自体が、原理上はできません。
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でも、逃れられないからこそ、一方でそのことに常に自覚的であろうとすることはとても大事なことだと思います。
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