頭での理解を優先するのではなく、先に体感してもらうことの重要性。

他拠点生活をするひとが増え始めて、社会の中で徐々に変化し初めているなあと強く思うのは「自我」の捉え方の変化です。

「変わらない私が常に存在している」という一神教的な考え方というのは、一つの拠点に縛られているからこそ、生まれてくる概念だと思っています。

一方、多拠点生活をしているひとたちは、場によって引き出される私が全く異なることを理解し始めている。

で、こうやって自らの実体験を通して「あれ、何かがおかしい…」と考える人が増えてきていて、結果的に仏教とかが同時に流行し始めているのを見ると、まずは先に体験してもらうというのは、非常に理に適っているのだろうあなと。

養老孟司さんが以前からずっと「参勤交代」を主張している理由も、ここにあるのかなと思います。

つまり、その順序が逆なんだろうなあって。

この点、能楽師・安田登さんがご自身の著書の中で「かんがえる」とは、決して自己の単独行為ではなく、身体を「媒介」に、環境と「交わる」呪術的な行為と語っており、これだけを読むと、「なんだかむずかしいそうなことを言ってるな」で終わってしまいます。

でも実際に、他拠点生活をする中でこのお話を聞けば、何らむずかしいことは言っていなくて、自分の中で起きているこの感覚を言葉にしてくれているんだなとスッと理解できます。

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さて、ここまでの一連の話を受けて、今日のタイトルにつながってくるのですが、頭での理解するのではなく、先に体感してもらうことが非常に重要なんだろうなあと最近漠然と感じています。

まずは、そのズレのほうを、先に直感的に感じ取ってもらう。

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